荏原郡(えばらぐん)は、東京府(武蔵国)にあった郡。 消滅時の郡域は、概ね品川区、目黒区、大田区および世田谷区の一部(上北沢、桜上水、経堂、桜丘、上用賀、瀬田、玉川以東)、川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区のごく一部(後述)にあたる。近世までは千代田区、港区の一部を含んだ。 読みについては、かつてはえはらと呼ばれていたが、室町時代頃からえばらと呼ばれるようになったようであり、「荏原」の他に「江原」、「縁原」、「永原」と表記した例がある。 郡衙の所在地については定説がなく、池上本門寺の台地の裾を通る古東海道以前の最も古い東海道と考えられている大井駅 - (現東急大井町線荏原町駅付近) - (現東急池上線長原駅付近) - 洗足池 - 小高駅(川崎市中原区小田中付近とも) - 橘樹郡郡衙(高津区影向寺付近)の道筋にある、大井町線荏原町駅近くの旗ヶ丘八幡(中延八幡)、法蓮寺付近が候補地のひとつと考えられている。しかし、発掘調査によるそれを裏付ける資料は出土していない。 武蔵国府の外港(国府津)だったと推定されている品川湊は、荏原郡衙の外港だったという説もある。 古くは、荏原郡桜田郷が郡の最北に位置し、日比谷入江に面し、平川(神田川、日本橋川の旧称)を挟んで、武蔵国豊嶋郡と接していた(なお後に、桜田郷は豊島郡へ移された)[注釈 1]。荏原郡は、現代区名で目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分を合わせた範囲に及んだ。しかし、江戸幕府の成立後、江戸御府内は荏原郡として認識されず、市域外が荏原郡と認識され、武蔵国22郡の中の1つとなった。この時代の豊嶋郡と荏原郡の境は古川といわれている。
郡域
隣接していた郡
西 - 北多摩郡
南 - 橘樹郡
北 - 南豊島郡、東多摩郡
概要
古代 - 近世
7世紀後半 - この時期に製作されたと考えられている「无射志国荏原評」(むざしのくにのえばらこおり)の銘がある平瓦(女瓦)が、川崎市高津区影向寺から出土している。
8世紀後半 - 万葉集20巻、防人の歌に対する付記が、文献における初見とされている[2]。
集歌4415「志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也」右一首、主帳荏原郡物部歳徳(白玉を 手に取り持して 見るのすも 家なる妹を また見てももや)「真珠を、手に取り持って、見入るように、家で待つ妻を、また(この目で)見たいものです」
集歌4418「和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尓於知母加毛」右一首、荏原郡上丁物部廣足(ひろたり)(わが門(かど)の 片山椿 まこと汝(なれ) わが手触れなな 土に落ちもかも)「私の家の門に咲く椿よ、おまえは本当に私が触れないのに土に落ちてしまうのか」
797年 - 続日本紀には武蔵国の郡名として荏原郡の名が見える。