草鹿任一
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草鹿 任一
海軍中将 草鹿任一
生誕1888年12月7日
日本 石川県加賀市大聖寺町
死没 (1972-08-24) 1972年8月24日(83歳没)
日本 神奈川県鎌倉市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1910年 - 1947年
最終階級 海軍中将
除隊後軍恩連盟全国連合会名誉会長
海軍ラバウル方面会会長
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草鹿 任一(くさか じんいち、1888年明治21年)12月7日 - 1972年昭和47年)8月24日)は、日本海軍軍人。最終階級海軍中将勲等勲一等
経歴

石川県にて誕生。父は弁護士草鹿甲子太郎。草鹿家は大聖寺藩加賀前田家分家)に仕えた一族であった。叔父である実業家草鹿丁卯次郎の長男が草鹿龍之介(海軍中将、海兵41期)、三男が草鹿浅之介最高裁判所判事、弁護士)である。

金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)に通学していた頃は、叔父宅(龍之介の家)に下宿をしていた。金沢一中を経て、四高に進んだが退学し、海軍兵学校37期)に入校。志望者3,7000名余りの中で3番で合格した。卒業席次は179人中21番。同期に井上成美大将、小沢治三郎岩村清一小松輝久桑原虎雄各中将などがいる。戦後の草鹿は井上を批判することもあったが、困窮した生活を送っていた井上が胃潰瘍で倒れた際には、井上の教え子や部下達と共に治療費集めに尽力している。
戦前

草鹿は砲術畑を歩み、海軍部内の権威者であった。砲術学校射撃科教官、戦艦山城」砲術長、第二艦隊砲術参謀、戦艦「長門」砲術長、砲術学校射撃科長、第一艦隊司令部附(砲術指導官)、教育局第二課長、砲術学校校長と砲術科専攻士官の要職を歴任している。海軍大学校甲種学生(19期)を卒業し、軽巡洋艦北上」や戦艦「扶桑」の艦長も勤めている。1936年(昭和11年)におきた二・二六事件に際しては強い怒りを示した[1]。事件が起きると草鹿の乗艦する戦艦「扶桑」が属する第一艦隊連合艦隊司令長官高橋三吉中将兼務・29期)は、東京湾に停泊し国会議事堂主砲の照準を合わせていた。

その後、第一航空戦隊司令官、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、海軍省教育局長を歴任した後、海軍兵学校長に就任する。同期生に「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と言われ、本人も内心は有難迷惑に感じていた[2]が、赴任するや生徒と共に学ぶをモットーに授業、訓練に参加し、村夫子然とした姿と相俟って、生徒達に「任ちゃん」と呼ばれ慕われた。また、海軍兵学校の生活を撮影した映画「勝利の基礎」には、海兵70期の卒業式(1941年11月15日)も収められており、草鹿校長の姿も残されている。

余談として、兵学校開校以来の秀才と謳われた平柳育郎中尉(駆逐艦文月」砲術長)が、1944年(昭和19年)1月に敵機の機銃掃射を受けて戦死した。南東方面艦隊司令長官になっていた草鹿が病院を見舞ったとき、平柳は息をひきとり火葬場につれていかれるところだった。草鹿は、「彼れ70期の首席として晴れの卒業式の光景なお記憶に新たなり」と回想して涙したという。
戦中黒板を背にした右から二番目が草鹿、左が山本五十六。

開戦後の1942年(昭和17年)10月1日、第11航空艦隊司令長官に補せられ出征。同年12月24日、南東方面艦隊司令長官となり終戦まで指揮を執った。ガダルカナル島奪回を目標に米豪連合軍と激戦を繰り広げたが叶わず、その後もラバウルを根拠地として連日の航空戦を展開した。


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