草間彌生
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草間 彌生
Wax model(2012)
誕生日 (1929-03-22) 1929年3月22日(95歳)
出生地長野県松本市
国籍 日本
芸術分野彫刻家画家
教育

京都市立美術工芸学校卒業
(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校

京都市立美術工芸学校絵画科卒業
(現・京都市立芸術大学

受賞

1995年96年 国際美術評論家連盟ベストギャラリー賞

2000年 第50回芸術選奨文部大臣賞

2000年 外務大臣表彰

2001年 朝日賞

2002年 紺綬褒章

2003年 フランス芸術文化勲章オフィシエ

2003年 長野県知事表彰

2006年 旭日小綬章

2006年 ライフタイムアチーブメント賞

2006年 高松宮殿下記念世界文化賞

2009年 文化功労者

2016年 文化勲章

ウェブサイト ⇒www.yayoi-kusama.jp
影響を受けた
芸術家ジョージア・オキーフ[1]
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草間 彌生[注 1](くさま やよい、1929年昭和4年〉3月22日[2] - )は、日本芸術家長野県松本市出身[3]京都市立美術工芸学校(旧・京都市立銅駝美術工芸高等学校)絵画科卒業[2]
人物

幼い頃から悩まされていた幻覚幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニング[4]と称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった[5]

草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様や網模様などの同一のモチーフ反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。「無限の鏡の間」(インフィニティ・ミラー・ルーム英語: Infinity Mirrored Room)(1965年制作)など合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のソフト・スカルプチュアによるオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。カボチャをモチーフにした作品もしばしば見られる。また、ファッションデザインや小説執筆などの活動も行う。

1962年に行われた、クレス・オルデンバーグアンディ・ウォーホルらも参加したグループショーに参加し、彼女ならではの表現を見せつけ、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」などの影響を与えた[6]
来歴

松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。その一方、少女時代から統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める[7]。10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとしていた[2]。草間は現在に至るまで水玉(ドット)をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング(英語版))、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くした様に、彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもある、とされる[要出典]。

1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選[2]

1948年(昭和23年)、松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学ぶ。

1949年(昭和24年)、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業[8]。後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。

1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で初めての個展を開く[2]精神科の西丸四方[注 2]が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、東京日本橋白木屋百貨店などのつてを紹介し縁を得る。2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。

1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展を行う。白木屋百貨店ほか、瀧口の関わるタケミヤ画廊でも個展を行う。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。

1957年(昭和32年)に渡米[2]。シアトルでアメリカ初の個展を行った後、1958年ニューヨークに移る[2]1959年、ポスト抽象表現主義作家が集まったことで知られるマンハッタン10丁目のブラタ・ギャラリーで個展を行ない[2]、「無限の網」(インフィニティ・ネット英語: Infinity Net)」等、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する[9]。これらは網の目に見えることから80年代末以降「ネット・ペインティング」と呼ばれるようになる[9]。この作品はドナルド・ジャッドやドア・アシュトンらに注目され、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた[9]。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品「トラヴェリング・ライフ」(1964年)などのインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行した。1962年に行われたクレス・オルデンバーグアンディ・ウォーホルなども参加したグループショーに参加し、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」の影響を与えた。[10]1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。


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