草野心平
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草野 心平
(くさの しんぺい)
1955年頃
誕生1903年5月12日
福島県石城郡上小川村(現・いわき市田中小川町
死没 (1988-11-12) 1988年11月12日(85歳没)
埼玉県所沢市
墓地常慶寺(福島県いわき市)
職業詩人
言語日本語
国籍 日本
最終学歴広東嶺南大学(現・中山大学
代表作冬眠、春殖、天気
親族草野櫻子(孫)
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草野 心平(くさの しんぺい、1903年明治36年)5月12日 - 1988年昭和63年)11月12日)は、日本詩人福島県石城郡上小川村(現・いわき市田中小川町)出身。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

慶應義塾普通部を中退、中国広東嶺南大学芸術科に学んだ。1928年に『第百階級』を刊行。1935年に逸見猶吉創刊の詩誌「歴程」に参加。その後、日本の傀儡政権である南京汪兆銘政府の宣伝部顧問となった。南京でできた『富士山』(1943年)に体制的思想の影響を指摘する評もある。戦後、「歴程」を復刊して多くの詩人を育て、を愛した。
経歴
生い立ち

1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村に、父・草野馨、母・トメヨの次男として生まれる[1]1907年(明治40年)5月に妹が生まれ、その後一家は上京するが心平のみ生家の祖父母の元で育てられる[1]1910年(明治43年)4月、上下小川組合村村立小川尋常高等小学校に入学する[1]1911年(明治44年)2月、祖父が67歳で死去、祖父の高蔵は福島県会議員や村長を務めた地主だった[1]

1916年(大正5年)1月、兄が結核性カリエスのため東京で16歳で死去、2月、上小川で療養中の母が肺結核のため46歳で死去する[1]。4月、福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)に入学する[1]。8月、姉が腸チフスのため22歳で死去する[1]

1919年(大正8年)11月、磐城中学校を4年生で中退、翌月上京し、父、継母、弟妹と小石川区白山上の借家に同居する[2]1920年(大正9年)4月、慶應義塾普通部3年生に編入したが9月に中退し、両国にある継母の知人宅に寄宿して正則英語学校善隣書院で学ぶ[2]

1921年(大正10年)1月、中国に出航する[2]。広東実業公司で働きながらYMCAで英語を学び、9月には広州嶺南大学(現・中山大学)に入学する[2]1922年(大正11年)、兄・民平の遺した詩稿に影響を受け、詩を作り始める[2]
初の詩集

1923年(大正12年)3月、詩誌『詩聖』に投稿誌「無題」が掲載される[2]。7月、徴兵検査のため帰郷中に、自筆の謄写版による兄との合著詩集『廃園の喇叭』を刊行する[2]。9月、広州に戻る[2]1924年(大正13年)2月から4月にかけて謄写版詩集『空と電柱』T?Vを刊行する[2]。6月、北京タゴールと会う[2]。7月、夏期休暇で帰郷中に謄写版詩集『月蝕と花火』を刊行する[2]。9月には嶺南大学の最終過程に進み、また新設された日本語講座の講師を務めるようになる[2]。同月、謄写版詩集『BATTA』を刊行[2]。同じ頃、日本から送られてきた宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読み感銘を受ける[2][3]


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