草野仁
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くさの ひとし草野 仁
2022(令和4)年10月10日月曜日)、東京競馬場で行われたトークショーにて
プロフィール
出生地 満洲国 新京市(現: 中華人民共和国吉林省長春
出身地 長崎県島原市
生年月日 (1944-02-24) 1944年2月24日(80歳)
最終学歴東京大学文学部社会学科
職歴元NHKアナウンサー
TBS局契約
→フリー
活動期間1967年 -
ジャンル情報・バラエティ・スポーツ
配偶者あり
公式サイト草野仁の日々是精仁
出演番組・活動
出演経歴『世界・ふしぎ発見!
朝のホットライン
ザ・ワイド
草野☆キッド』など
その他ロサンゼルスオリンピック中継(総合司会)
天皇陛下即位10年関連行事司会進行
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

草野 仁(くさの ひとし、1944年2月24日 - )は、日本のニュースキャスター総合司会者、元NHKアナウンサー

世界・ふしぎ発見!』の司会など、多方面で活動している。
略歴・人物

1944年、満洲国新京(現:中国吉林省長春)に生まれる。父は数学者長崎大学名誉教授の草野萬三郎、母は音楽教師。2歳の時に引き揚げ長崎県島原市で育つ。10歳以上年の離れた兄2人と8歳年上の姉を持つ末っ子。島原市立島原第一中学校卒業後、長崎県立島原高等学校に進学。その後、長崎県立長崎西高等学校への転校、一浪を経て東京大学文学部社会学科を首席で卒業。卒業論文のテーマは「戦後沖縄における対米感の推移」[1]

1967年、NHKに入局。報道記者志望だったにもかかわらず、アナウンサーで採用された。鹿児島福岡大阪東京アナウンス室などでの勤務経歴がある。また、鹿児島局から福岡局へ転勤した頃に自律神経失調症を患い、当時を振り返って『病は気からだった』と述懐している[2]

1985年春をもってNHKを退職。この頃「アナウンス室は報道局の指示に全て従う」と通達が発せられ、報道局の言いなりとなることを危惧したからだったと後述している[3]。この年のNHKは、秋に生方恵一が退職し、当時のエース格だったアナウンサー2人を失う事態となった。退職直後にTBS専属契約を(1991年まで)結び、同年4月から同局の『朝のホットライン』の総合司会を担当。

1993年4月以降は日本テレビ読売テレビ制作の『ザ・ワイド』など主に主婦向けのテレビ番組で人気を博し、フリーとなってからは各地で講演も行っている。フリー転身後はほぼ総合司会・キャスターの仕事に専念していたが、テレビ朝日系列にて放送された冠番組『草野☆キッド』などのバラエティ番組に出演してこれまで見せてこなかった「肉体派」「ボケキャラ」の一面を披露して視聴者を驚かせたり、コミカルなCMに出演するなど還暦を越えてからも様々なことに積極的に挑戦している。

歌唱力も優れておりCDデビューの経験があるほか、フジテレビお笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』の常連出演者であり、優勝経験がある。

多くの場合は「草野さん」と呼ばれるが、徳光和夫など親しい間柄では「仁(ひとし)」の読み方を変えた「仁(じん)さん」とも呼ばれる。
スポーツアナウンサーとして

かつての草野はスポーツアナウンサーとして知られ、1976年モントリオールオリンピック実況中継担当、1984年ロサンゼルスオリンピック中継、『ニュースセンター9時』のスポーツコーナーキャスター、『テレビスポーツ教室』の司会などを歴任した。

モントリオールオリンピックでは、競泳男子100m自由形決勝でジム・モンゴメリーアメリカ合衆国)が50秒の壁を破る49秒99の世界新記録を出して優勝したレースでの実況(NHKラジオ第1放送)などを担当した。

1980年レークプラシッド冬季五輪では男子スピードスケートエリック・ハイデン(アメリカ合衆国)が500m、1,000m、1,500m、5,000m、10,000mと全ての距離のレースを制覇し史上初の五冠王に輝いたすべてのレースの実況を担当したのも草野である。

2008年北京オリンピックではテレビ東京のオリンピック放送メインキャスターを務めた。草野にとってはNHK時代の1984年のロサンゼルスオリンピック、そして1992年バルセロナオリンピックニッポン放送をキーステーションに全国ラジオ局共同放送)以来のオリンピック中継担当であった。
競走馬馬主として草野が一口馬主として出資したブエナビスタ

NHK入局当時からの競馬ファンでもあった草野は競馬中継も担当しており、グリーングラステンポイントトウショウボーイを降して勝ち、TTGの時代が本格的に始まった1976年第37回菊花賞や、最後のNHK競馬中継での実況となった、シンボリルドルフが三冠を達成した1984年の第45回菊花賞などの実況も担当していた(八大競走初実況は1975年の第36回菊花賞)。日本ダービー1982年(第49回東京優駿。勝馬・バンブーアトラス、鞍上・岩元市三)に実況した。

フリーになってから馬主登録を行い、2001年菊花賞に出走したメイクマイデイを所有(8番人気で6着)している。

一口馬主としてカッティングエッジ(第24回クイーンカップ優勝)を始めダンスインザダークダンスインザムードブエナビスタというGIレース優勝馬に出資しており、2017年の東京優駿優勝馬レイデオロにも出資していることを明かしている[4]岡部幸雄を始めとして競馬関係者との交友もあり、自ら執筆した競馬に関するエッセイも書籍化されている。

草野の実況は杉本清を手本とした部分もあったと『優駿』2010年5月号での杉本の対談でも語っていた。
エピソード・パーソナルデータ

少年時代から運動能力が抜群だった
[5][6]

中学時代は長崎県大会の陸上100mで優勝。高校時には100mを11秒2(当時のインターハイ決勝進出レベル)で走った[7]ソフトボール投げは86mを記録し、頼まれて出場した高校野球の新人戦では4番を打った。しかし、「勉強もしない根性無しがスポーツをやってもダメだ」と父親に叱られ、当時入部していた陸上部を強制的に退部させられた。

大学時代に相撲国体・長崎県予選に参加したことがあり、当時77.5kgの体で130kgの前年度優勝者を投げ優勝を果たした。しかし、大学の卒業論文を仕上げなければならないことを理由に、国体出場を辞退した。

NHK新人時代には上司とアマチュアレスリングの取材に行き「お前もやってみろ」と言われ関西大学の現役学生選手と対戦したところ、未経験ながら勝利を収めたという逸話もある。

剣道二段の有段者。


日頃からウエイトトレーニングを欠かさず、ベンチプレスでは100キロ超を挙上する。リンゴを片手で握りつぶしたり、分厚い電話帳を真っ二つに引きちぎったり、親指と人差し指でクルミを潰すこともできる。これらにより、テレビCMでも草野の肉体にスポットを当てた企画が登場した。多忙の身でありなかなかジムでトレーニングをする時間が取れないため、現在では自宅でトレーニングをしているとのこと。「自分で自分の体をコントロール出来るように」と5kgのダンベルをほぼ毎日300回している。昔は15kgのダンベルを使用していた[5]

ミニチュアダックスフントを二代続けて飼っており、現在は「モカ」と「クッキー」の2匹を飼っている。

大のプロレスファン。特にアメリカのWWEを愛好していることで知られる。きっかけは「2000年に息子がテレビ観戦していた映像を横目で見たこと」といい、以後テレビ放送は毎週欠かさず視聴しているほか、WWEの日本公演もスケジュールが許す限り観戦している[8]2008年1月には2月の有明コロシアム大会・日本武道館大会のプロモーションのため来日したリック・フレアーからWWE・世界ヘビー級王座のチャンピオンベルトを贈られた[9]

WWEのスーパースター、ショーン・マイケルズニックネーム「HBK(HeartBreak Kid)」をもじって、ファンからはHBK(Hitoshi Bosshoot Kusano)とも呼ばれている[10]。草野自身も過去にWWE日本公演のパンフレット[11] におけるインタビューでHBKのニックネームについて触れているほか、所属事務所の公式twitterのアカウント名も「HBKOffice」である[12]


2007年9月、14年間総合司会を務めた日本テレビ・読売テレビ共同制作の『ザ・ワイド』が、読売テレビの制作撤退や、視聴率低下などから終了に至った。終了後は多くの番組にゲスト出演している。

長崎育ちということもあり、カステラが大好物である。一方でアルコールに弱く、普段はお酒を飲まない。

現在は個人事務所の「株式会社草野仁事務所」所属だが、同事務所には他に都築紗矢香羽田未蘭野、内田翔、山本菜月が所属している(2022年1月現在)[13]。過去には尾崎勇気(元関脇・隆乃若)、中島亜梨沙立花優美も所属していた。

パーソナルデータ


身長170cm、胸囲116cm[5]。血液型A型。

家族

父・萬三郎(
1906年 - 2008年8月14日

長崎県出身。旧制長崎県立島原中学校旧制福岡高等学校を経て、1929年東北帝国大学理学部数学科を卒業。旧制高校時代には砲丸投で全国優勝した[14]。島原中、三池中、奉天二中各教諭を経て、1939年12月に新京工業大学教授に就任[15][16]。のち長崎大学名誉教授に就任。


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