草軽電気鉄道
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草軽電気鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京都渋谷区上通2丁目55[1]
設立1912年(大正元年)9月28日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、バス事業、不動産、別荘地運動競技場経営 他[1]
代表者社長 高木時雄[1]
資本金8,000,000円[1]
発行済株式総数160,000株[1]
特記事項:上記データは1957年(昭和32年)8月1日現在[2][1]
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電化前の大正期の草津軽便鉄道(草軽電気鉄道)
概要
現況廃止
起終点起点:新軽井沢駅
終点:草津温泉駅
駅数21駅
運営
開業1915年7月22日 (1915-07-22)
最終延伸1926年9月19日
廃止1962年2月1日 (1962-2-1)
所有者草津軽便鉄道→草津電気鉄道→
草軽電気鉄道
使用車両車両の節を参照
路線諸元
路線総延長55.5 km (34.5 mi)
軌間762 mm (2 ft 6 in)
電化直流600 V 架空電車線方式

路線図

凡例


国鉄:信越本線


軽井沢駅


0.0新軽井沢駅 1915-1960


1.5旧軽井沢駅

(2) 1932-1960
←旧道駅


1.7旧軽井沢駅 (1) 1915-1937?


3.0三笠駅

1915-1960
←精進場川駅


6.1鶴溜駅 1915-1960


10.0小瀬温泉駅

1915-1960
←小瀬駅


12.6長日向駅 1923-1960


17.3国境平駅

1920-1960
長野県群馬県


19.9二度上駅 1917-1960






23.8栗平駅 1917-1960


24.8湯沢駅

1936-1959?
臨時駅


25.8北軽井沢駅

1918-1960
←地蔵川駅


28.3吾妻駅 1917-1960


32.4小代駅 1921-1960


36.8嬬恋駅 1919-1960


吾妻川橋梁 吾妻川


37.9上州三原駅 1926-1962


↑新鹿沢温泉口駅←新嬬恋駅


38.6東三原駅 1926-1962






-湯窪駅

1926-1962
貨物専用駅


万座温泉口駅

1926-1962
←石津平駅


48.7草津前口駅 1926-1962


50.0谷所駅 1926-1962


-鳥の窪駅

1927-1929?
貨物専用駅


55.5草津温泉駅 1926-1962




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草軽電気鉄道(くさかるでんきてつどう)とは長野県北佐久郡軽井沢町新軽井沢駅群馬県吾妻郡草津町草津温泉駅を結ぶ鉄道路線軽便鉄道)を運営していた鉄道事業者(廃止時は東急グループ傘下)。

鉄道事業廃止後も、会社は草軽交通というバス会社として残っている[3]。本項目では主に同社が運営していた鉄道路線について述べる。
概要

草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治時代後半になっても交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイス登山鉄道に着想を得て、軽井沢から草津や浅間山麓の高原地への輸送を目的として着工され、大正時代の1914年 - 1926年にかけて順次開業した。開業に際し、以下のような唄も作られている。
私や草津の鉄道よ 長い苦労の効あって 開通するのも近いうち 前途を祝して踊ろうよ

私や上州の草津町 浅間を右に高原の 海抜四千五百尺 お湯じゃ日本のオーソリティー

湯の花かおる草津には 春は緑に秋紅葉 冬はスキーに夏は避暑 浮世離れた理想郷

この間、1923年吾妻川電力が沿線5か所の発電所建設による資材輸送の必要から草軽電気鉄道を傘下[4]に収めると、同社の重役である河村隆実を社長に就任させ、社名変更、電化、草津温泉への延長、自動車兼営、電気事業など積極的な経営に乗り出し、そのための増資社債発行を実施した。

同時期に法政大学学長の松室致は、自分の別荘が蒸気機関車の火の粉による火災に遭ったため抗議をしに会社を訪れたが、逆に説得され電化事業に手を貸すようになった。そして松室から7.9万坪もの土地の寄付を受け、それを元手に五百坪付の株式を売り出し、130万円の増資に成功した[5]

ところが予想に反して利用者は伸びず、政府の補助金を受けても赤字は埋まらない状態が続いた。配当も途中から無配となり、ついには社債も債務不履行となった。1932年の社債権者集会では利率の大幅引き下げを決議[6]し、その他償還日(1934年9月)の延長は何度も行われ、最終的には1945年9月まで支払猶予したという。

建設費用をできるだけ抑えようとしために急カーブやスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらずトンネルは存在しなかった。勾配がきついところではブレーキをかけるのが大変だったという。それに加え、本来道床に必要なバラストも敷かれない区間もあった。線路規格も極端に低かったことから、55.5 kmを走破するのに2時間半から3時間を要した。

高原地には、嬬恋・北軽井沢等の途中駅があった。高原列車として親しまれ、1951年には日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場した。


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