草谷川
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草谷川
草谷川(加古郡稲美町)
水系一級水系 加古川
種別一級河川
延長11.47 km
流域面積14.6 km²
水源の標高48 m
河口・合流先加古川大堰
流域兵庫県
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草谷川(くさたにがわ)は、兵庫県神戸市西区三木市の境界を画し、加古郡稲美町を経て再び三木市に入り、加古川加古川大堰に至る河川で、河口付近では八幡川とも呼ばれる。透水性が強い印南野の台地にあって、数少ない自然形成河川である。
水源草谷川樋門と加古川大堰(左奥)、五ヶ井・新井用水はここから取水

岡光夫(元同志社大学教授)の『加古川流域農村史研究』では古文書を引用し源流は「明石郡天王山(雌岡山)」としているが、現在その流路は存在しない。赤外線測域センサによる衛星画像では、兵庫県立三木総合防災公園がある芥子山から伸びる埋没した開削谷筋の痕跡が確認でき、そちらが源流とする見方もある[1]

現在は淡山疏水(淡河疎水 + 山田川疎水)が供給源となっており、本流は下勝成池(新松池)から発生し、副流は宮ヶ谷調整池(大堤池)から八道が池を経て合流する。また、宮ヶ谷調整池から流れ出る淡山疏水合流幹線が老ノ口分水所で分岐し、城ヶ谷池を経て広谷川となり草谷川に合流する。こうしたことから人工河川(用水路)としては淡山疏水・東播用水水系に組み込まれている[2]
歴史

嘉禄元年(1225年)、天文元年(1532年)に洪水の記録が残り、近年では1965年昭和40年)にも大規模な氾濫を引き起こしている[2]
分水系
用水路
加古大溝加古大溝

大溝用水とも呼ばれ草谷川から加古大池に至る約3キロの用水路(加古大溝取水口北緯34度45分45.16秒 東経134度57分53.55秒)。万治3年(1660年)に開発が始まり、延宝9年(1680年)に完成。大同元年(806年)造の経ノ池を形成した草谷川古分流痕の地形を開削した。現在では淡河疎水加古支線の一部が流入する。[2]

経済産業省近代化産業遺産「瀬戸内海沿岸の灌漑施設」の構成遺産に選定されている。
雁戸井用水

雁戸井(がんどい)用水は草谷川から取水し、途中隧道を経て加古川市の一号池に至る約4キロの用水路(雁戸井堰北緯34度45分46.79秒 東経134度57分24.08秒)。1910年明治43年)に完成。一号池は1916年大正5年)に完成。雁戸井は堰がある稲美町母里地区の通称である。

経済産業省の近代化産業遺産「瀬戸内海沿岸の灌漑施設」の構成遺産に選定されている。
青之井用水万才池?凱旋池間の青之井用水旧路(土塁水路が崩壊)

寛文4年(1664年)、稲美町中一色田中で曇川(後述)に取水口を設け開削された(青之井用水取水口北緯34度45分30.9秒 東経134度53分28.2秒)。加古川市の皿池?平木池[補 1]?戸ヶ池を経て、白ヶ池川(後述)の水源となる。

1905年(明治38年)に万才池と凱旋池が造られ、青之井用水を補完する淡河疎水森安支線が引き込まれ、両池間は土塁水路が築かれたが、皿池から万才池への揚水も始まり、現在の白ヶ池川取水口が改めて設けられた。
五ヶ井用水新井用水(左)と五ヶ井用水

江戸時代に著された「五ヶ井由来記」(明暦3年(1657年)10月頃成立か)の伝説によれば、日向明神(日岡神社の神)と聖徳太子によって堰が築かれたという[3]。日本史研究者の金子哲は、実際は鎌倉時代末期の1300年代から1310年代にかけて、真言律宗真言宗の僧侶で後に後醍醐天皇の腹心となる文観房殊音(弘真)が原・五ヶ井用水への修築事業を指揮したのではないか、と主張している[3]。金子は、「五ヶ井由来記」の説話は、文観の祖父の一人が日岡神社神主であった可能性もあることや[4]、真言律宗は聖徳太子信仰が深かったことなどが伝説化したのではないか、と推測している[3]

明暦2年(1656年)に現在の加古川大堰付近に取水口を設けたが、河川改修により草谷川が加古川へ合流する直前の樋門から取水するようになったことで、草谷川水系となった(草谷川樋門北緯34度47分33.13秒 東経134度53分21.6秒 / 上部画像参照)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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