草津町_(広島県)
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くさつちょう
草津町
廃止日1929年4月1日
廃止理由編入合併
三篠町己斐町、草津町、古田村牛田村矢賀村仁保村 → 広島市
現在の自治体広島市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方山陽地方
中国・四国地方
都道府県広島県
佐伯郡
団体コード当時は存在せず
面積2.313km2.
総人口5,343人
(1925年)
隣接自治体広島市・己斐町古田村井口村
草津町役場
所在地広島県佐伯郡草津町大字草津(現・草津東二丁目)
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広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 藩政期における現在の草津地区での新開地の造成、明治期における庚午新開の造成が示されている。

草津町(くさつちょう)はかつて広島県佐伯郡に存在したである。1889年明治22年)の町村制発足時には「草津村」として設置されたが、1909年(明治42年)町制を施行して草津町となり、1929年昭和4年)4月1日広島市編入合併して消滅した。
目次

1 地理

2 歴史

2.1 地名の由来

2.2 中世

2.3 近世

2.4 近代


3 沿革

4 大字

4.1 草津

4.2 庚午新開(こうごしんがい)


5 各種施設・企業(1929年4月時点)

6 交通(1929年4月時点)

7 合併後の状況

8 関連書籍

9 関連項目

10 外部リンク

地理

旧「佐伯郡草津町」の境域は現在の
草津の大部分に加え庚午の大部分を含む。

広島のデルタの西側、すなわち旧福島川(現在は拡幅され太田川放水路 / ⇒[1]参照)河口の西に位置する(広島市編入後広島湾沖合への埋め立てが進行し、当時とは海岸線がかなり異なっている)。

川を挟んで対岸には広島市、同川の西岸では北に佐伯郡己斐町古田村、南に同郡井口村に接していた(現在はいずれも広島市に編入され同市西区の一部分となっている)。

町役場(当初は村役場)は大字草津に設置された。

歴史
地名の由来

南北朝時代からの歴史ある地名で、古代、神功皇后三韓出兵のさいこの地に布陣したという伝承から「軍津」(いくさつ)と呼ばれ、これが訛ったという説がある。古くは「久曾津」とも書いた。
中世

中世の草津村は古江村(のちの古田村)を村域に含んでおり(慶長年間頃まで)、近隣の己斐村山田村井口村と同様、厳島神社の社領(荘園)であった。戦国時代には、当初、厳島社神主家配下の羽仁氏が草津城を拠点にこの地を支配しその後大内氏陶氏の勢力圏に入った。1554年天文23年)以後は毛利氏支配下となり、水軍の将である児玉氏が毛利の防長移封まで3代にわたって草津を統治した(詳細は草津城参照)。入江や干潟に富んだ地形は早くからこの地に港を発達させることになり、城の南にある草津湊(くさつみなと / 草津漁港の前身だが埋め立てにより現在は沖合に移転)は毛利水軍の基地になるとともに米・塩などの荷揚げ、厳島社への参拝や瀬戸内の島々への渡船場として賑わい、村には町屋が形成された。
近世

藩政期、草津は広島城下の外港としての役割を果たし、浜田藩(松平氏)の船屋敷が一時設置されていたこともある。また街道筋に位置する草津城址には城下町の西端を示す大門が設けられた。広島およびその近辺の水産物の集散地でもあり、延宝年間以降はカキの養殖が盛んになり、仁保島江波などと並ぶ特産地となった。さらに沖合に広がる遠浅の干潟では早い時期から新開地の造成が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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