草原の道
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「シルクロード」のその他の用法については「シルクロード (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「海の道」はこの項目へ転送されています。古代オリエントにあった道路については「ウィア・マリス」をご覧ください。

シルクロード(絹の道、英語: Silk Road, ドイツ語: Seidenstrase, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:??之路)は、中国地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称。

ただし「シルクロード」の概念は一義的ではなく、広義にはユーラシア大陸を通る東西の交通路の総称であり、具体的には北方の草原地帯のルートである草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を通る海の道の3つのルートをいう[1]。狭義にはもっとも古くから利用されたオアシスの道を指してシルクロードという[1]。オアシスの道は中国からローマへは、アルタイ山脈から中国へはが重要な交易品となっていたことから、このルートは「絹の道」あるいは「黄金の道」と呼ばれており、のちに草原の道や海の道が開けるまでは最も合理的な東西の交易路であった[2]。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコ世界遺産に登録された。 シルクロードの主要なルート
目次

1 概要

2 「草原の道」

3 「オアシスの道」

4 「海の道」

5 シルクロードと日本

6 シルクロードプロジェクト

7 シルクロードを題材とした作品

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

概要

「シルクロード」という名称は、19世紀ドイツ地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstrasen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった[3]

シルクロードの中国側起点は長安陝西省西安市)、欧州側起点はシリアアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。 ステップ地帯
「草原の道」

中国から北上して、モンゴルカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海カスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイ匈奴突厥といった多くの遊牧民騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。

現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている[4][5]
「オアシスの道」

東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路「オアシスの道」が、リヒトホーフェンが名付けたところの「シルクロード」である。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン[6]以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、シルクロード交易を支配していたといわれている。東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。 オアシスの道
(ロプノールが干上がると、楼蘭を経由する水色のルートは通行が困難になった。)
西域南道
敦煌からホータンヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。現在のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年喀和線が開通している。
天山南路(西域北道)
敦煌からコルラクチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。
天山北路
敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。現在のG312国道蘭新線北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。


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