茨城電気_(1905-1921)
[Wikipedia|▼Menu]

茨城電気株式会社茨城電気の本社と水戸第二発電所
種類株式会社
本社所在地 日本
水戸市大字上市北三ノ丸132[1]
設立1905年10月31日
業種電気・ガス業
事業内容電力供給
代表者前島平(専務)[1]
資本金300万円[1]
従業員数204人[2]
決算期6月・12月[3]
テンプレートを表示

茨城電気株式会社(いばらきでんき)は、茨城県水戸市に存在した電力会社である。1905年明治38年)10月31日に資本金12万円で前島平らが設立した。日本で初めてサクションガス力発電を行った企業である。他にも茨城県内を流れる久慈川水系・川尻川水系の河川で電源開発を行い、水力発電所を運営した。1921年大正10年)9月1日多賀電気と合併し茨城電力を設立した。
沿革1908年(明治41年)当時の茨城電気本社と水戸第一発電所創業者の前島平
会社設立の経緯

1897年(明治30年)、当時茨城県知事であった小野田元熈は、茨城県の産業発展を進めるために地元の有志を引き連れ栃木・群馬の産業視察を行った[4]。小野田は特に足尾・日光の水力発電所を見学させるという意図があった[4]。一行の中には太田町(現・常陸太田市)の前島平がおり、視察中水力発電所に関心を抱き、熱心に調査を行ったという[4]。前島はその後、阪神・静岡の産業視察を行い、両地方でも水力発電が発達している様を見て、電気事業を郷里に興したいと考えるようになる[4]。前島は太田町に戻り、小林彦右衛門・西野治郎兵衛・高和秀次郎・小泉源三郎・前島宗助・橘宇兵衛(太田の七人組)に電気事業の重要性・将来性を説く[4]

1904年(明治37年)8月、前島平は七人組を集め、茨城県を訪れていた野口遵に水力発電に関する話を聞く[4]。前島は自身が見定めた水力発電所の候補地を野口に伝え、調査を依頼する[4]。調査を行った野口は、同地で300キロワットの発電が可能であり、12万円程の経費で発電所が建設できると伝えた[4]。前島はこれを聞いて久慈川水系里川の水利利用願を1904年(明治37年)12月30日に茨城県知事に提出する[4]

資金調達を始めるべく、前島は金融方面に明るい、住友銀行の加納友之介に相談を行った[5]。前島は加納の紹介で2人の技術者を招き、技術的調査をさせた後に設計書を作成した[5]。発電力は300キロワット、送電圧は1万1,000ボルト、総工事費は16万円という見積もりであった[5]。なお、同設計書には「各種工業に最も低廉な動力を供給して、工業の発達を図る」という事業目的が書かれている[6]。設計書を書いた後、前島はすぐに資金調達に取り掛かるが、投資者が中々集まらなかったため資本金を12万円に減資した[5]

1905年(明治38年)2月24日に水利権を獲得した後、前島は電気事業の許可申請を行う[5]。同年10月13日には逓信大臣から許可が下り、10月31日に前島平ら太田の七人組が発起人となって茨城電気株式会社を設立した[5]。資本金は12万円で、本社所在地は茨城県久慈郡太田町東2丁目236番地に置いた[5]
電源開発

1905年(明治38年)12月から発電所を建設し始めたが、水路工事が難航し、資金面で行き詰まりを迎える[7]。そこに、日立鉱山の電源を探していた久原房之助が水力発電所の譲渡を提案する[7]。茨城電気は1906年(明治39年)8月に建設費の実費3万8,000円とプレミアム2万5,000円、3年後の買戻権をつけて水力発電所の譲渡に応じた[7]。電源は水戸市内に火力発電所を設けることとした[7]。しかし、この譲渡を快く思わない地域住民もおり、公益を説いて水利権を獲得しながら個人に譲渡するとは利己主義甚だしいと攻撃する者もいた[8]

茨城電気は海外の事例を参考にし、小規模発電に適しかつ建設費も安いサクションガス機関を用いた発電所を建設することを決める[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef