范増
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范増
洛陽古墓博物館壁画

歴陽侯
出生紀元前277年ごろ
楚 居巣
死去紀元前204年
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范 増(はん ぞう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Fan Z?ng、紀元前277年 - 紀元前204年)は、末期の参謀。居巣(現在の安徽省合肥市巣湖市)の人。『史記』によると項羽からは亜父(あふ、あほ[1]、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛されたが、劉邦側からの権謀術数により、最終的には項羽から離れて死んだ[2][3]
略歴

誰にも仕えずに暮らしていた[4]。また、奇策を立てることを好んだ[5]二世元年(紀元前209年)、陳勝・呉広の乱がおき、項梁会稽で挙兵していた。

二世二年(紀元前208年)、陳勝は秦との戦いで戦死する。項梁は陳勝の行方不明後に楚王を名乗った景駒と景駒を擁立した秦嘉を「無道である」として、彭城に侵攻して打ち破る。秦嘉は戦死し、景駒は逃亡した。同年4月、項梁は秦との戦闘を行い、途上で陳勝の死を聞いて、薛に諸将を集めて今後の事を図った。当時既に70歳になっていた范増であったが、彼の元を訪れると「陳勝の敗北は当然のことです。秦が六国(魏・趙・韓・斉・楚・燕)を滅ぼした時、楚は最も罪が無かったのに、懐王は秦に入ったら帰してもらうことはありませんでした。楚の人は今でもこのことを憐れんでいます。だから、楚の南公[6][7] も『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』と言ったのです。陳勝は初めに決起しましたが、楚王の子孫を立てずに、自ら王となったため、勢いは長続きしませんでした。あなた(項梁)は江東で決起しています。楚で蜂起した将たちが争ってあなたに就くのは、あなたの家柄が代々の楚の将軍であるから、楚王の子孫を王に立てるであろうと考えているからです」と進言、決起を促す。項梁はこれを採用して?心(後の義帝)を探し出し、同年6月、祖父と同じ懐王を名乗らせて擁立した。

同年9月、項梁が秦の章邯軍によって戦死する。懐王?心は彭城に都を移した。

同年後9月[8]、懐王?心は、宋義を上将軍とし、項羽を次将とし、范増を末将に任じられ、秦に攻められているの救援に向かう楚軍を率いた。その他の諸将は宋義に属した。

また、沛公劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。

二世三年(紀元前207年)11月、項羽は途中で宋義と対立し、これを斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破って関中へ向かう。

元年(紀元前206年)10月、咸陽にいた秦王子嬰は、関中にまで進軍していた劉邦に降伏していた。

同年12月、劉邦は函谷関を封じて項羽に抵抗し、項羽は函谷関を打ち破り、関中に侵入した。また、劉邦の左司馬である曹無傷から、「劉邦が関中王になろうとしている」と注進が行われていた。項羽は、新豊の鴻門に軍を置き、劉邦と戦闘を行うことを決意した。

この時、劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことが喧伝されており、このとき范増は、「沛公(劉邦)が山東にいる時は、財貨と美女を好んでいました。ところが関中に入ったら、財を奪うことも女性を寵愛することもしなかったのです。これは劉邦の志が小さいものでない証です。私が(気を占うことできる)人に劉邦の気を見せたところ、その気は龍や虎となり五色のあやとなっています。これは天子の気です。すぐに攻撃すべきです。機会を逃してはいけません」、劉邦を殺すよう項羽に進言した。項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、叔父の項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。有名な「鴻門の会」である。

この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように示唆したが、項羽が決断できず、項荘を使って劉邦の暗殺を図る。しかし、張良や項伯や樊?などに妨げられ、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。会の後で、范増は暗殺すべき劉邦をむざむざ生かした項羽の判断を悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことができない!)と叫び、劉邦から贈られた玉斗を地面に置いて、剣を抜いて突き壊してしまった(豎子とは項羽を指す)。

同年1月、項羽が秦を滅亡させて諸将を封建する際には、「劉邦は危険だ」と考えて、秦では流された人が住む地であり、道が険しいの地へ追いやった(これが左遷の故事となる)。しかし劉邦は、配下の張良から項伯に手厚い贈り物を渡し、関中の代わりに漢中をもらえるように(項羽に進言することを)要請する。項羽はこれを許したため、劉邦は漢中の地を手に入れてしまう[9]

同年8月、劉邦は韓信を得ると関中へ攻め入って章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。范増も項羽を支え続けた。

三年(紀元前204年[10]、項羽は?陽と敖倉をつなぐ甬道を攻撃し、漢軍は兵糧が乏しくなって講和を項羽に求めてきた。項羽は同意しようとしたが、范増は「漢を相手どるのに全く容易い状況です。今、許して滅ぼさねば、後で必ず後悔しましょう」と進言する。項羽は同意して、范増とともに劉邦の籠る?陽を囲み、?陽の包囲戦(?陽の戦い)を行う。

劉邦の配下の陳平は、「楚を乱せる可能性はあります。項羽の硬骨の臣は、亜父(范増)・鍾離?龍且周殷といった数人に過ぎません。大王(劉邦)が数万斤の金をだしてくだされば、反間の計を行い、項羽の君臣の間に疑心を起こさせましょう。項王(項羽)の人柄は疑い深く、讒言を信じるでしょう。必ず内部で責めあうでしょう。その時、漢軍が兵をあげて楚軍を攻めれば、必ず勝てるでしょう」と進言する。劉邦は陳平の進言を受け入れ、4万斤の金を与えて離間計に仕掛けた[11]。陳平は、間者を楚軍に放ち、「鍾離?たち諸将は項王の将となって功績が多いのに、土地を与えられて王になることはできないだろう。


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