茂谷山_(能代市)
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茂谷山

茂谷山
標高247.8 m
所在地秋田県能代市
位置北緯40度11分22.17秒
東経140度09分45.20秒
プロジェクト 山
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地理院地図 Googleマップ 茂谷山

茂谷山(もややま)とは、秋田県能代市の山である。遠方から見ると、米代川南方台地上にあって綺麗な三角形の山に見える。
目次

1 特徴

2 エヒバチ長根窯跡

3 山田秀三のアイヌ語地名研究

4 菅江真澄の記録

5 参考文献

6 脚注

特徴

能代市の鶴形、大台野の台地の林道の奥にある標柱と鳥居登山口となっている。およそ15分程度で山頂に到達する。神社の裏には四等三角点がある。山頂には、小学校の登頂記念の碑や、嘉永3年の石灯籠石碑、神社があり、能代の町や白神山地を遠望できる。以前は、能代市の鶴形と二ツ井町富根の境界線上にあって、鶴形と富根の人が参拝していた。

茂谷山の北方には、里山林保全整備事業「湯ノ沢」があり、住民の憩いの場や教育の場として里山が整備されている。里山は、育成の森、探検の森、実りの森、記念の森に分けられ、それぞれの森を徒歩で移動できる林道があり、また四阿トイレも整備されている。ここには、旧富根小学校の学校林がある。
エヒバチ長根窯跡

茂谷山の北東のため池近くには、エヒバチ長根窯跡[1]がある。これは、鎌倉時代前半の跡で。昔からすり鉢(エヒバチ)に似た破片が見つかり、エヒバチ長根と呼ばれていた。発掘調査では標高70 - 75 mの斜面に南北方向に掘られた3基の窯跡が確認されており、生産された器種は、、片口鉢、四耳から経筒容器など8種ほどである。

この規模の窯を維持するためには、有力な支配者や経済基盤が存在したと思われるが、ほぼ同時期にこの近辺での山岳仏教の盛地であった高岩山からは、径甕(秋田県指定文化財)や四耳壺が出土している。また、茂谷山付近には更に「長根」や「瓶ノ沢」という地名があるという[2]

昔、この地の住民が茂谷山付近の茂谷沢へ山仕事に出て腹が空いた時には山芋を掘り、山腹に捨てられているエヒバチ(擂鉢)の破片で山芋をおろして食べていたという。このことから、少なくとも江戸時代末期から明治時代初期には住民はエヒバチの破片が捨てられていることを認識していた。発見された当時には、最北の須恵器窯跡であった。その後、十三湊安東氏関連遺跡から出土した須恵器が蛍光X線分析法で、この遺跡からのものであることが判明し、遺跡調査の機運が盛り上がり、1988年昭和63年)10月に発掘調査が行われた。14本のトレンチ調査が行われ、3本の窯跡が発見された。既に持ち去られてしまい「昔に比べれば無いも同然」とは言え、土器片が大量に発掘された。考古学磁気年台検査によれば、1230年寛喜2年) - 1245年寛元3年)±20年頃に作られたものであるという(12 - 13世紀年代測定が100年ほど新しくなる可能性も示唆されている)[3]

出土した須恵器は現在、能代市二ツ井町歴史資料館に展示されている[4]
山田秀三のアイヌ語地名研究

山田秀三は『東北・アイヌ語地名の研究』で、青森県から秋田県にかけて、いくつかの「モヤ山」に出あったとしている。いずれも、独立した小山で、三角山や円頂状の目立つもので印象に残る。それらは、「茂谷山」とか「靄山」とか「雲谷山」とかの字で書かれている。山田は、アイヌ言語学者の知里真志保に尋ねたところ、アイヌ語の「モイワ」(小さな岩山)がなまったものであるとした。

十三湖小湊町の間にある靄山、藤里町の茂谷山、田沢湖の南にあって湖に突き出す形になっている靄森山、青森県の八甲田北部にある雲谷山などがあげられている。このほかにも鹿角市にも茂谷山八峰町には母谷山があり、その形に共通性がある。

ただ、この能代市の茂谷山は、アイヌ語の「モイワ」としては大きすぎ、またモイワは平地の続きのにあることが多い。しかし、山田秀三は見る位置を変えると、この山もそのようにも見られるとも書いている。
菅江真澄の記録 茂谷山山頂


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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