茂木善作
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茂木善作

第1回箱根駅伝でゴールする茂木(1920年/26歳)
選手情報
フルネーム茂木善作
ラテン文字Zensaku Motegi[1][2]
国籍 日本
競技陸上競技
種目マラソン長距離走[3]
大学東京高等師範学校(現・筑波大学
生年月日1893年12月10日
出身地 日本山形県飽海郡本楯村豊原(現・酒田市豊原)[4]
居住地 日本山形県酒田市本楯[5]
没年月日 (1974-12-24) 1974年12月24日(81歳没)
死没地 日本山形県酒田市大町[5]
身長185 cm[4]
オリンピック20位(1920 アントワープ[6][7]

獲得メダル

男子陸上競技
日本
極東選手権
銀1921 上海マラソン


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茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年明治26年)12月10日 - 1974年昭和49年)12月24日[3])は、日本陸上競技選手、スポーツ指導者教員山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である[3]。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた[4]
経歴
東京高師卒業まで(1893-1922)

1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる[3]。茂木家は農家で、善作は三男であった[4]。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた[4]1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する[4][8]。山形師範では中等学校中距離走大会でトップを取っており[9]、山形県マラソン競走では4年連続で優勝を果たした[10]。その後、蕨岡尋常高等小学校(現・遊佐町立蕨岡小学校)に赴任する[4]。茂木は自転車を持っておらず、本楯の自宅から蕨岡小まで毎日走って通勤し、夏休みには学校近くにある小物忌神社の520段の石段をトレーニングに利用していた[11]。また蕨岡小勤務時代に歩兵第32連隊で6週間の兵役に従事し、当時の汽車は遅すぎて茂木は乗っていられず、走って行ったことから、連隊の幹部に「先生走って来たかや」と声をかけられた[8]。プライベートではこの頃結婚している[12]

1918年(大正7年)、向学心に駆られて東京高等師範学校(東京高師、現・筑波大学)に進学する[4]。入学してすぐの校内長距離競走(東京高師校庭 - 大宮氷川神社間)にて9位に入賞し、注目を集める[13]。ここで金栗四三と出会い、その門下生として鍛えられ、長距離走選手として頭角を現す[14]

1920年(大正9年)2月、金栗らが企画して開催された第1回東京箱根間往復大学駅伝競走に東京高師代表として出場、10区に出走した[4]。東京高師は復路スタート時点でトップと8分27秒の差がついており[15]、茂木がたすきを受け取った時には11分52秒に差は拡大していた[4]。それでも茂木は力走し、尾張町(現・銀座四丁目の歌舞伎座付近)でトップの明治大学をとらえ[16]、明治大と25秒の差で優勝した[4]1920年アントワープオリンピックの日本選手団
前列の左から2番目が茂木善作、右隣に嘉納治五郎、後列右端に金栗四三。

同年のアントワープオリンピック日本代表に選出されたことで、茂木は山形県初のオリンピック選手となった[3]マラソン日本代表には茂木・金栗に加え、茂木とともに第1回箱根駅伝に出場した三浦弥平と、後に箱根ランナーとなる八島健三の4人が選ばれた[4]。オリンピック出発前の5月に山形へ帰省し、親族や友人らに出発前の挨拶を行い、母校の山形師範や山形新聞社にも立ち寄った[17]5月14日横浜港を出航してアメリカ経由でアントワープへ向かった[17]。8月のアントワープオリンピック本番では10000mとマラソンに出場し、10000mでは予選3組で12位(最下位)、マラソンでは2時間51分09秒4で20位(日本代表の中では金栗に次ぐ2位)であった[1][2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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