茂庭氏
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茂庭氏(もにわし)
斎藤系茂庭氏。藤原北家利仁流斎藤氏一族。はじめ鬼庭氏を称す。

河村系茂庭氏。藤原北家秀郷流河村氏一族。

ともに仙台藩伊達氏の家臣で藤原北家を称するが、完全な別系統である。目次

1 斎藤系茂庭(鬼庭)氏

1.1 概要

1.2 主な分家


2 河村系茂庭氏

2.1 概要


3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 参考文献

斎藤系茂庭(鬼庭)氏

茂庭(鬼庭)氏
重ね剣菱
本姓藤原北家利仁流
家祖斎藤実良
種別武家
士族
出身地山城国愛宕郡八瀬
主な根拠地陸奥国伊達郡茂庭(鬼庭)
陸奥国志田郡松山
著名な人物鬼庭良直
鬼庭綱元
茂庭定元
支流、分家文字茂庭氏(武家)
平渡茂庭氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

概要

斎藤実盛の近親であるという山城国愛宕郡八瀬の住人・斎藤行元を初代とする。

行元の養子・基良(多田満仲の後裔と称す)は、平治の乱後の混乱を避け八瀬を離れ、はじめ下総国佐倉、次いで下野国那須へと移住し、建久3年(1192年)に基良の子・実良が陸奥国伊達郡茂庭に土着する。伝承では、茂庭村近くの飯田沼に棲む(すむ)大蛇がいけにえの乙女を求めて伊達・信夫を荒らしまわっていたので、実良が奥州に下って大蛇を射殺し、この時に村の名を茂庭から鬼庭(おににわ)に改め、実良も斎藤から鬼庭に改姓したとしている。鬼庭氏はその後同地の領主・伊達氏の家来となり、南北朝時代伊達宗遠出羽国長井郡に侵攻した際には鬼庭勢がその先鋒を務めるなど、伊達家譜代の臣として仕えていた。

鬼庭氏が伊達家の重臣としての地位を確立したのは、一族の家格を与えられた戦国時代の第13代当主・良直(左月斎)以降のことである。良直は永禄7年(1564年)に当主となった伊達輝宗により評定役[注釈 1]に抜擢されて伊達家の内務全般を取り仕切るようになり、外交面を担った遠藤基信と共に輝宗政権の中核を成した。

良直は隠居後の天正13年11月(1586年1月)の人取橋の戦いで主君・伊達政宗を逃がすため殿軍を務めて討死し、家督を継いでいた子の綱元が翌年に奉行職を拝命する。綱元は政宗による葛西大崎一揆の煽動が露見した際に豊臣秀吉への弁明のため上洛し、それ以後は京に在って秀吉との折衝を担当し、文禄の役の際には名護屋城に在って留守居役を務めた。綱元は秀吉に気に入られ、この時に秀吉の命により姓を鬼庭から茂庭へと改めた。しかし、秀吉との親密な関係は主君・政宗からの疑念を招き、文禄4年(1595年)には子の良綱(良元)に家督を譲って隠居せよと命じられる。これに憤激した綱元は伊達家を出奔したが、2年後に赦免されて帰参している。帰参後の綱元は、父・良直が務めていた評定役を拝命し、政宗が死去する寛永13年(1636年)まで仙台藩草創期における行政部門の統括者としての役割を果たした。

一方、綱元の隠居により茂庭氏の家督と本領とを相続していた良元は、慶長8年(1603年)に志田郡松山城を拝領し、以後茂庭氏は幕末に至るまでこの地を所領とした。良元は奉行職・評定役を歴任し、正保元年(1644年)には知行を10,000石に加増されている(最終的な茂庭氏の表高13,000石に達する)。仙台藩内において一門以外で万石級の所領を有していたのは、他には白石城主・片倉氏だけ[注釈 2]であった。明暦3年(1657年)には良元の子・定元が松山城から近接する上野館へと居館を移している。定元とその子・姓元は、第3代藩主・伊達綱宗の押込に端を発した伊達騒動の中心人物の一人として知られている。

この騒動以降、茂庭氏は藩政の中枢に関わることはほとんどなくなり、専ら所領の経営に力を注ぐようになった。文政12年(1829年)には第22代当主(松山8代目)・有元が郷学・大成館を創立して家中の人材育成に努めた。大成館からは養賢堂指南役を務めた小野寺鳳谷らを輩出している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、当主・敬元が若年であったため庶兄の元功が名代として出陣し、分家の平渡領主・茂庭元徳と共に浜通り戦線で薩長軍と戦ったが、仙台藩は敗戦し降伏した。


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