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茂山 千作(しげやま せんさく)は、狂言大蔵流の名跡。京都を本拠とする茂山千五郎家の隠居名。現在は空き名跡。
初世詳細は「茂山千五郎#九世」を参照
初世 茂山 千作(しょせい しげやま せんさく、文化7年旧暦5月17日(1810年6月18日)- 明治19年(1886年)5月11日)
九世茂山千五郎正虎の隠居名。 しげやま せんさく 二世 茂山 千作(にせい しげやま せんさく、元治元年旧暦9月27日(1864年10月27日)- 昭和25年(1950年)2月5日) 初世の三男。本名市蔵。1864年に京都に生まれ、幕末の混乱期に育つ[1]。1868年、「柿山伏」のシテで初舞台を踏む[2]。 連正喬(通称瓶次郎、初代千之丞)[3]の弟として誕生した市蔵はワキ方の家の養子となる予定であったが、1872年に兄が流行病で死去したため、家を継ぐことになった[4]。実母の死去後の継母との折り合いが悪く、21歳のときに家を出て[4]放蕩するが、父の死後は、父の弟子らの指導を受けながら狂言に励む[1]。1888年に十世茂山千五郎を襲名し、正重を名乗る[5]。 それまで格式張っていた狂言を人々に楽しんでもらおうと、集会の余興などにも気軽に呼ばれて演じ、「おかずに困れば豆腐に。余興に困れば茂山の狂言に」と言われるようになった[1]。1906年には、京都の催し子供博覧会[6]で、13歳から7,8歳程度の子ども十数名によるお伽狂言20番あまりを公演して好評を博し、1907年1月には、東京において巖谷小波・久留島武彦らのお伽倶楽部のための公演も行った[7]。京都お伽倶楽部においても子ども狂言の活動が行われる[8]など、狂言普及に尽くした。 1946年、二世「茂山千作」を隠居名として襲名[5]。谷崎潤一郎の随筆『月と狂言師』(1949年)に、息子や孫とともに登場し、一門の気さくな人柄が描写されている。 1948年、「枕物狂
二世
茂山 千作
(二世)
二世茂山千作(1947年)
本名茂山 市蔵(しげやま いちぞう)→茂山 正重(しげやま まさしげ)
別名義十世 茂山 千五郎
(じゅっせい しげやま せんごろう)
生年月日 (1864-10-27) 1864年10月27日
没年月日 (1950-02-05) 1950年2月5日(85歳没)
職業狂言方大蔵流能楽師
活動内容狂言
著名な家族長男(養子):三世茂山千作
孫:四世茂山千作
孫:二世茂山千之丞
曾孫:五世茂山千作
曾孫:二世茂山七五三
曾孫:茂山あきら
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1950年2月5日、85歳で死去した[5]。
大柄で比較的派手な性質であり[9]、芸風は、はじめサービス過剰の演技[1]であったものの、後に枯淡な芸と評された[10]。
三世.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:顔写真の画像提供をお願いします。(2024年3月)
しげやま せんさく
茂山 千作
(三世)
本名茂山 真一(しげやま まさかず)
別名義十一世 茂山 千五郎
(じゅういっせい しげやま せんごろう)
生年月日 (1896-08-22) 1896年8月22日
没年月日 (1986-07-19) 1986年7月19日(89歳没)
出身地 大日本帝国・京都府(現在の 日本・京都府)
職業狂言方大蔵流能楽師
活動期間1901年- 1986年
活動内容狂言
配偶者茂山スガ(1998年死去)
著名な家族長男:四世茂山千作(人間国宝・文化勲章受賞者・日本芸術院会員)
次男:二世茂山千之丞
孫:五世茂山千作
孫:二世茂山七五三(人間国宝)
孫:茂山あきら
曾孫:十四世茂山千五郎
曾孫:茂山茂
曾孫:茂山宗彦
曾孫:茂山逸平
曾孫:三世茂山千之丞
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三世 茂山 千作(さんせい しげやま せんさく、明治29年(1896年)8月22日 - 昭和61年(1986年)7月19日)は[11]狂言方大蔵流能楽師、茂山千五郎家11代目当主(1946年 - 1966年)、人間国宝(重要無形文化財各個認定)保持者。
二世の養子。本名は茂山 真一(しげやま まさかず)。生家は菓子商で、実の祖父は和泉流狂言を習っていたというが、生後すぐに養子とされ、実子同然に育てられた[12]。1901年に「附子」のシテで初舞台を踏み、幼少期は病弱であったが、父の厳しい稽古に耐えて成長する[12]。
1935年から35年をかけて、茂山家の現行の台本200番を書き留める地道な業績を残し、真一本はその後の茂山家で現行台本とされているほか、北川忠彦ら校注の『狂言集』の底本となった[13][14]。
1946年、養父が千作を襲名するのに伴い十一世茂山千五郎を襲名[11]。谷崎潤一郎とその妻に狂言小謡や狂言小舞を教えるなど親交があり、還暦記念に新作小謡「ささめ雪」を書いてもらっている[15]。
1959年、京都新聞文化賞受賞。