脂、 苻生
前秦
第2代皇帝
王朝前秦
在位期間355年 - 357年
姓・諱苻生
字長生
諡号脂、
生年335年?
没年357年
父苻健(第3子)
母明徳皇后
后妃梁皇后
年号寿光 : 355年 - 357年
苻 生(ふ せい)は、五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝。字は長生。元の姓は蒲といった。略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)出身の?族で、初代皇帝苻健の三男である。母は強氏(明徳皇后)。 蒲生(後の苻生)は幼い頃から無法な行いを繰り返しており、祖父の蒲洪(後の苻洪)からは強く忌み嫌われていた。生まれた頃から隻眼であり、彼が幼少の頃に蒲洪はふざけて侍者へ「片目の子は片方からしか涙を流さないと聞いているが、まことかね?」と問うと、怒った蒲生は刀で自らを刺して血を流すと、「これもまさか涙と言うのですかな」と言い放った。驚いた蒲洪は蒲生を鞭打ったが、蒲生は「生来、刀刺を恐れた事などありませんが、鞭打ちは我慢なりませんな」と言うと、蒲洪は「汝が行動を改めなかったならば、我は汝を奴隷に落とそう!」と脅した。だが蒲生はなおも反論したので、蒲洪は子の蒲健(後の苻健)に対し「この子は非常に残暴であり、すぐに除くべきだ。さもなくば、必ずや家人を損なう事になる」と言った。これを聞いた蒲健は蒲生を殺そうと考えたが、蒲生の叔父の蒲雄(後の苻雄)が「子供は成長すると自然に改めるものです。どうしてこのような事をする必要があるのです!」と諫めたので、蒲健は思い止まったという。 成長すると勇猛に成長したが、しかし性格は凶暴で殺戮を好み、また多量の飲酒を好んだという。350年1月、蒲洪が大都督・大将軍・大単于・三秦王を自称し、自らの姓を苻に改めると、蒲生もまた苻生と名を改めた。351年1月、苻健が天王・大単于の位に即くと、苻生は淮南公に封じられた(前秦の成立)。352年1月、苻健が帝位に即くと、淮南王に進封された。
生涯
幼少期
苻健の時代
10月、皇太子苻萇は桓温との戦いで矢傷を負い、それが原因で亡くなった。355年4月、新たに太子を立てる事となると。母の強皇后は晋王苻柳(苻生の弟)を皇太子に立てる事を望んだが、苻健は讖文に「三羊五眼」の一節があったとして、苻生を皇太子に立てた(三頭の羊に眼は五つという事は、眼が一つ失われている。また、苻生は三男であった)。
6月、苻健が病床に伏せるようになると、苻生の従兄の苻菁は兵を率いて東宮に入り、苻生を殺して自立を図ろうとした。この時、苻生は西宮において看病に当たっていたので、苻菁は既に苻健が死んだものと考え、東掖門を攻撃した。だが、苻健が姿を現すと、苻菁の兵は逃散した。苻健は苻菁を捕らえて処刑した。
苻健は病が篤くなると、重臣の太師・録尚書事魚遵・丞相雷弱児・太傅毛貴
・司空王堕・尚書令梁楞・僕射梁安・太保段純・右司馬辛牢らを呼び寄せ、苻生を輔政するよう遺詔した。また、苻生が凶虐であった事から家業が保てないのではないかと憂え、苻生へ向けて「六夷(胡)の酋師や大臣の中で、もし汝の命に従わぬ者がいれば、少しずつ除いていくように」と言い残した。数日すると苻健は亡くなった。苻生は苻健を景明皇帝と諡し、廟号を高祖とした。即位した苻生は領内に大赦を下し、寿光と改元した。群臣が「越年せずに改元するのは、礼に適っておりません」と上奏すると(古礼では世子が即位した際、年を越してから改元するのが慣例であった)、苻生は激怒して上奏の発案者を探し出し、段純だと分かると捕らえて処刑した。この一件を皮切りに、皇后の梁氏や他多くの群臣を処刑した。また即位以前からの寵臣の趙韶
を右僕射に、趙誨を中護軍に、董栄を尚書に任じたが、趙韶・董栄らは奸佞な人物であり、大いに朝政を乱した。苻生は355年9月に前涼の君主張祚が殺害され、後を継いだ張玄?がまだ幼いと聞き、356年1月に征東将軍苻柳・参軍閻負・梁殊を姑臧に派遣し、書を以て降伏するよう説いた。張玄?を補佐する涼州牧張?は大いに恐れ、張玄?に使者を派遣して称藩するよう上奏した。張玄?からの使者が到着すると、苻生は張玄?らが称していた官爵をそのまま授けた。2月、前燕皇帝の慕容儁が配下の慕輿長卿らに兵七千を与え、?関より攻め寄せると、この侵攻を知った苻生はケ羌を救援に差し向け、この戦いで慕輿長卿を討ち取り、2千7百を超える首級を挙げる大勝利を得た。
4月、関中攻略を目指していた姚襄が進軍すると、苻生は苻黄眉・苻道・苻堅・ケ羌に歩兵騎兵合わせて1万5千を与え、姚襄討伐に向かわせた。前秦軍は偽装退却を用いて姚襄を本陣から引き離した上で攻撃し、乱戦の中で姚襄は斬り殺され、その軍は戦意を失い降伏した。弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると、苻生に降伏した。姚襄は父の姚弋仲の棺を軍中に置いていたが、苻生は王の礼をもって姚弋仲を葬り、また公の礼をもって姚襄を葬った。苻黄眉は長安に帰還したが、しかし苻生はこれを一切賞さず、逆に幾度も衆人の目前で苻黄眉を侮辱した。苻黄眉はこれに激怒し、苻生を殺害して自立しようと謀ったが、事前に露見してしまい、誅殺された。この一件に連座して、多数の王公・親戚が殺害された。
さらに苻生は、別の従兄弟であった清河王苻法や、その兄弟らまでも殺害しようとの計画を侍婢に漏らしたが、この侍婢はこの事を当の苻法へと報告した。これを聞いた苻法は、他の朝臣らと共に壮士数百を率いて宮殿へと突入した。また苻法の弟である苻堅も兵数百を率いて宮殿に迫ると、宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に従った。この時、苻生はまだ酔い潰れて眠っていたが、兵を率いた苻堅が現れると、苻生は驚愕して側近へ「この輩は何者か」と問うた。側近が「賊であります!」と答えると、苻生は彼らへ「なぜ拝謁しないか!」と叫ぶと、苻堅の兵はみな笑った。苻生は「どうしてすぐに拝さない。従わぬ者は斬り捨てるぞ!」と叫んだが、苻生は苻堅の兵により別室に連行され、越王に降格された上で殺害された。苻生は死に望んでもなお数斗の酒を呑んでおり、前後不覚であったという。享年23、在位すること3年であった。獅ニ諡された。 苻生は先帝の服喪の期間であっても、遊び呆けて酒を飲み、少しも悪びれる様子が無かった。酒や遊びに夢中になると淫虐となり、非道にも殺戮を行った。また、いつも弓を構えたり剣を抜いて朝臣に見せたりしており、処刑に使う器具を左右に置いていた。 苻生は幼い頃より凶暴であったが、即位して以降その残虐性はますます酷くなった。また酒にも溺れ、昼夜関係無く飲み続けた。群臣は朔望(旧暦1日と15日)には朝廷に謁していたが、接見出来るのは稀であり、会えたとしても日が暮れてからであった。朝政に臨んでもいつも何かにつけて激怒し、殺戮を行った。場合によっては何ヶ月にも渡って酒に酔っぱらって朝廷に赴かず、奏上文を寝たまま決裁することもあった。その一方で、姦佞なる者の進言は聞き入れ、賞罰には基準などなかった。 寵愛する妻妾でも少しの過失で殺害され、屍は渭水へ投棄された。女官には男子と宮殿の前で裸交を命じる事もあった。死刑囚の顔の皮を剥いで歌舞をさせると、群臣を招いてその様子を見せ、これをもって喜び楽しむ事もあった。また、生きたまま牛・羊・驢馬の皮を剥ぎ、生きたまま鶏・豚・鵝を熱湯に投げ入れると、30から50を1纏めにして殿中に放つなどの奇行も行った。 宗室・旧臣・親戚・忠良の士は大半が殺害され、群臣は1日を過ごすことが、10年にも感じられた。王公で位にある者はみな病を理由に官職を辞し、帰郷を願い出た。人々は恐れ慄いたが、公然と非難出来なかったので、道路で出会えば互いに目でその不満を共有していた。 また、苻生は隻眼であったので『不足、不具、少、無、缺、傷、残、毀、偏、隻』と言う文字の使用を禁じ、これを犯した者は左右の側近でも処刑され、その数は記録出来ないほどであった。苻生が即位して幾ばくもしない内に、殺された人間は后妃・公卿以下僕隷に至るまでゆうに500人を越え、截脛(膝から下を斬り落とす)・拉脅(わき腹を圧し潰す)・鋸頸(頸を鋸で斬り落とす)・刳胎(胎児を抉り取る)の刑に処される者が相次いだ。治世の末年には、その数は千をはるかに越えたという。
人物・治世
主な逸話
即位の直後である355年8月、中書監の胡文・中書令の王魚が「近頃は彗星が頻繁に訪れ、火星が不吉な方位に表れております。占ってみましたところ、3年を経ずに国に大喪があり、大臣が殺戮されると出ました。願わくば、陛下は周の文王のように徳を修め、群臣を慈しみ、天下の安寧を成して頂きますよう」と上表すると、苻生は「皇后と朕が天下に臨めば大喪の変を塞ぐに十分である。毛太傅(毛貴)・梁車騎(梁楞)・梁僕射(梁安)は輔政の遺詔を受けているから、大臣とは彼らの事であろうな」と述べた。同年9月、梁皇后・毛貴・梁楞・梁安を処刑した。
丞相の雷弱児は苻生に対してしばしば厳しい諫言を行っており、また趙韶・董栄らが政治を乱している事を朝政において公言していた。355年12月、趙韶らはこれに恨みを抱き、苻生に雷弱児の事を讒言した。これにより、雷弱児は9人の子と27人の孫とと共に誅殺された。雷弱児が誅殺されたことにより諸々の羌族は離心を抱き(雷弱児はもともと羌族酋長であった)、離反する者が相次ぐようになったという。
司空の王堕もまた朝政を腐敗させていた尚書の董栄・侍中の強国
356年1月、苻生は群臣と共に太極殿において宴会を開き、右司馬の辛牢が酒監となった。宴もたけなわとなると、音楽が奏でられ、苻生自ら歌を詠み、場を楽しませた。だが、苻生は辛牢が酒を飲んでいないのを見ると「酒が進んでいない者がどうしてこの席に座っているか!」と怒り、辛牢を射殺した。群臣は震え上がり、先を争って酒を口にした。一同が疲れ切って倒れると、苻生はこれに満足した。
356年4月、長安で家屋や樹木が引き抜かれるほどの大風が発生した。宮中は騒然となり、ある者が賊が忍び込んだと称すると、宮門は5日間閉鎖された。苻生は賊を見つけたら心臓を抉り取ると布告すると、母方の叔父である左光禄大夫の強平は「天が災いを降したのです。