苻堅
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宣昭帝 苻堅
前秦
第3代皇帝

王朝前秦
在位期間357年 - 385年
姓・諱苻堅
字永固
文玉
諡号宣昭皇帝(前秦の哀平帝による)
壮烈天王(後秦武昭帝による)
文昭皇帝(後涼懿武帝による)
廟号世祖(前秦の哀平帝による)
生年咸康4年(338年[1]
没年建元21年8月26日
385年10月16日
父魏王苻雄(嫡長子)
苟氏
后妃苟氏(中国語版)
年号永興 : 357年 - 359年
甘露 : 359年 - 364年
建元 : 365年 - 385年

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代前秦の第3代皇帝[2]

?族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により?水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した族の部下姚萇に殺害された。
生涯
背景

苻堅は337年に姓が苻ではなく蒲であった頃の苻雄と苟氏の間に生まれ、後趙石虎の支配下にあった。苻洪の孫で、初代皇帝高祖景明帝(苻健)の甥である。後趙が石虎の死によって衰退すると、?族の長で部将であった苻洪は苻と改姓して関中への進出を図ったが、その前に部将の麻秋に毒殺された。苻洪の子の苻健が後を継ぐと、苻雄(苻堅の父)の補佐を得て関中に進出した[3]。この時、苻健は昔苻洪が受けたという龍驤将軍の称号を苻堅に与えた[4]。苻雄は東海王とされ、354年に死去すると子である苻堅が東海王の称号を継いだ[5]

苻堅は孝子で幼い頃から志気があり、博学多才であったという[5][4]。7歳にして聡明で施すことを好み、立ち居振舞いが作法に適っていた。これを奇とした祖父の苻洪に侍った[4]

苻健が355年に死去すると、苻生(苻堅の従兄)が後を継いだ。357年5月、関中への侵入を図った羌族の族長姚襄三原で戦い、勝利して姚襄を戦死させ、弟の姚萇を降した[6]。この際、前秦の部将の苻黄眉(苻堅の従兄)が姚萇を誅殺したがったが、苻堅が止めた[7]
即位

苻生は暴政を行って乱行を繰り返したため、357年6月にはこれに不満を持つ一派から異母兄の苻法と共に支持を受けて苻生を殺した。ただし記録によると苻生の暴虐が実際以上に悪く描かれているとされ、一説には傍系から即位した苻堅の正統性を強調するための誇張であるとされている。しかし兄が辞退したため、生母の勧めもあって彼が第3代皇帝として即位した。後に兄の苻法は、賢明で人望もあったためにかえって苻堅の生母の苟氏に危険視され、結局は殺害された。苻堅は兄の死に慟哭して血を吐いた。
王猛の補佐と全盛期

苻堅は大秦天王と称して即位した[8]。幼少時より明敏で博学多才だった苻堅は学問を奨励し、内政を重視して国力の充実と文化の発展に意を図った[8]。また漢族の有力貴族で、さらに名宰相でもあり名将でもあった王猛の補佐を受けて、重商主義から重農主義に転換したが、これは重商主義がかえって豪商の利益を増すばかりになっていたため抑制するためであり、また関中における灌漑施設の復興や長安に移民した匈奴や鮮卑を利用して農業基盤を整備するためであった[8]。また官僚機構を整え、法制を整備して中央集権化を進めた[8]。苻堅はこれまで胡族と漢族の対立が厳しかった華北では様変わりしたような融和策を次々と採った[9]。彼の施策は王猛の補佐の下、漢族伝統の治世方針を採用したものが非常に多く、また王猛とは水魚の交わりと称してもよいほど君臣を越えた仲であったという[9]。また多くの側近から排除をするように進言された仏教僧の釈道安を信任して仏教を厚く尊崇するなどしている[2]

360年半ばまでは内政に尽力したためか、国内では苻氏一族の苻双や苻柳・苻武による内乱[10]や匈奴等の反乱、国外からは前涼前燕の外圧を受けていたが、368年までには国内を安定させた[11]。その後は積極的な対外策を展開し、370年11月には親征して前燕を滅ぼし、中原から遼東までの広大な領域を獲得し、関東の烏桓丁零などを関中に移した[12]371年4月には苻雅楊安らを派遣して前仇池を服属させ、373年9月には東晋から蜀(成漢)を奪った[12]376年8月には姚萇梁熙らを派遣して前涼を滅ぼして涼州を奪った[11]。12月には苻洛を派遣してを滅ぼし、華北を統一した[11][9]

またこの勢威により、朝鮮高句麗新羅からは朝貢が行なわれ、国内は学校が復興されて学問が盛んになり、風俗が整備され、街道や宿舎が整備されて商売や手工業者が安心して仕事ができたという[4][11]
南下と東晋との大決戦

苻堅は華北を統一すると、この実績を背景に残る江南制圧、すなわち東晋征服を企んだ[13][2]。しかし375年に信任していた王猛が急死し、またその王猛の生前における強い反対もあって[12][13]、延期を余儀なくされる。

東晋との戦いは378年2月に苻堅の庶長子の苻丕が12万の大軍を率いて襄陽を攻撃した事から開始された[14]。苻丕は379年2月に襄陽を落とし、5月には広陵にまで進出するなど東晋の首都の建康に迫る勢いを示したが、謝玄の反撃を受けて押し戻されている[14]。また380年には苻洛が龍城で大規模な反乱を起こして中山まで混乱させたため、遠征はさらに延期となった[10]

382年10月、苻堅は東晋への南征について太極殿にて一族群臣と協議した[15][14]。弟で王猛没後に補佐になっていた苻融・皇太子苻宏・僧侶の釈道安など主だった者は全員反対した[14]。一族群臣の多くは、「東晋には謝安らの人材が揃っているし、長江の険に守られているので攻撃はたやすくなく、中原平定の後間が無く将兵が疲れている」として時期尚早であるとして反対論を唱えたり[2]、「晋を討つべからずと言う者は忠臣なり」と涙を流して諫言したりした[15]。これに対して苻堅は「朕は大業を継承して20年になんなんとしている。逃げる賊を平らげ、四方はほぼ平定し、あとは東南の一隅に朕に従わない東晋をこのままにしておく事は社稷(国家)のためにならない、天下を統一して民衆を救おうと思う」と述べて群臣の意見を封殺した[12][14][16]。また慕容垂のみが「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白(韓信白起のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」と述べて賛意を示し、苻堅は「朕と共に天下を定める者は、ひとり卿のみ」と大変喜んだという[17]。たまりかねた重臣は信任厚い高官を通して苻堅を思いとどまらせようとし、愛妾の張夫人ですらたまりかねて「天の聡明は我が民の聡明による」と『書経』の言葉を引用して諌めたが「軍旅は婦人の預かるべき事ではない」とはねつける有様だった[17]

そして383年、中国統一を目指しついに100万と号する(実質的には50万)大軍を率いて苻融と共に南下した[18]。だがこの苻堅出陣でさえ群臣は反対しており、長安に留まるように諫言するも聞き入れなかった[19]。苻堅は滅ぼした国の君主(隴西李儼・前燕の慕容?・前涼の張天錫ら)を殺さずに降伏させており、その後は官職を与え長安に屋敷を建てて住まわせていた。そこで今度は、司馬曜の屋敷を建てさせ、勝利の暁には連れてくる予定であった。前秦の南下を知った東晋では先手を打ち、桓沖が襄陽を、楊亮が蜀をそれぞれ攻撃したが、前秦はこれを押しとどめた[18]。8月、苻堅は苻融・苻方・梁成・慕容垂ら主だった者を率いて本格的に南下し、東西から建康を目指した[18]。10月には苻融が寿春を落としたが、東晋の謝石と謝玄の反撃に遭い、梁成が討死した[18]。このため苻堅も寿春にまで進軍して東晋軍と対峙した。これが?水の戦いであるが、かつて襄陽を守備する晋将であったが敗れて捕えられた後に赦され前秦に仕えていた武将の朱序の裏切りもあり、謝安により派遣された謝石・謝玄らの率いる東晋軍に攻められて大敗した[18]。前秦軍は大混乱を喫して軍兵の7割から8割もが死亡し、苻堅は流れ矢に当たって負傷するという惨憺たる有様であったが[18]、苻融と共に国士として優遇した慕容垂の軍勢に護衛されて、命からがら12月に長安に逃げ帰った[20]。だが、従軍していた張天錫らは東晋に降り、片腕の弟の苻融は戦死した[20]。苻堅は長安に帰還すると、遠征を思いとどまらせようとした張夫人に対して、「われ、また何の面目あってか天下を治めん!」とさめざめ泣いたという[21]
前秦の崩壊と苻堅の最期

東晋との決戦で大敗した結果、前秦の中央支配力は動揺して一気に衰退した。このため、これまで前秦に服属していた?族以外の有力者は次々と謀反を起こして独立し、慕容泓慕容沖が華陰で関中の鮮卑を糾合して西燕を、姚萇が渭北の馬牧場に拠って後秦を、慕容垂が後燕を建国した[20]。前秦の勢力は一気に華北全土から長安周辺や河北の一部という地方政権にまで零落した。苻堅はこれら離反した勢力の鎮定を目指して応戦したものの敗戦が多く、この混乱により長安の経済は破壊されて深刻な食糧不足に陥った[20]

385年3月、苻堅は東晋に救援を求める使者を派遣し4月に謝安が救援に向かった。5月、反乱を起こした慕容沖の勢力を恐れた苻堅一家は長安を脱出して五将山に逃れたが、7月に姚萇に捕らえられてその本拠の新平郡の仏寺に幽閉された[20]

苻堅は姚萇から禅譲を迫られるが、「五胡の次序に、汝羌の名はない」と述べて拒否した[22][20][16]。このため、8月に姚萇によって縊り殺された[23]。一説に自殺したともされる[24]。享年48。?にいた庶長子の苻丕が即位、残存勢力をまとめて後燕との戦いを続けていった[23]
人物・逸話

苻堅は「腕が膝に届き、目に紫光を宿す」という異相を有していた。幼い頃の逸話として、人物鑑定家の徐統から「覇王の相あり」と評されたこともある。ある時祖父に師について学問をしたいと願い出た。祖父は「我々は漢族からみると夷狄であり、また代々酒好きなのに、学問をしたいというのか」と驚き喜んで、師について学ぶ事を許したという[4][25]

漢族宰相の王猛とは民族を超えた信頼関係で結ばれ、弟の苻融は「王景略(王猛)は一時の奇士であり、陛下はいつも彼を孔明(諸葛亮)に擬していました」と評価している[26][16]
評価「前秦#社会」も参照

伝統的に符堅は高く評価されていたとは言えず、『晋書』符堅載記の論賛でも「裏切り者を信じて国を破滅させ、天下の笑いとなった。哀れとも言えまい、誤りがなかったとも言えまい」としている。[27]

南宋の史家李Zは『六朝通鑑博議』において符堅を酷評した。「符堅は状況判断を間違え、攻めるべきときでないときに攻め込んだ愚の甚だしき者」とし、「攻めるべきときに攻める状況判断ができるのが知将である。韓信のような知能、呂布のような武勇、王莽のような威勢を兼ね備えても天運がなければなかなか南下は難しい。符堅は知もなく、勇もなく、威もなかった。おまけに状況も悪かったが、自称百万の兵を頼みに攻め込んできた。王猛・苻融が侵攻を諦めるように言ったのはそのことを知っていたからだ」と酷評している。


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