英米関係
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英米関係



イギリス
アメリカ合衆国
在外公館
在米英国大使館(英語版)在英米国大使館(英語版)
外交使節
駐米大使 キム・ダロック駐英大使 ウッディ・ジョンソン
アメリカ領ヴァージン諸島からイギリス領ヴァージン諸島を望む。イギリスのジョンソン首相とアメリカのトランプ大統領(2019年8月・第45回G7サミットにて)

英米関係(えいべいかんけい、英語:United Kingdom?United States Relations)では、イギリスアメリカ合衆国の両国関係について述べる。
両国の比較

2020年 イギリス アメリカ合衆国
人口6788万6004人3億3141万9281人
面積24万2495平方キロメートル962万8000平方キロメートル
首都ロンドンワシントンD.C.
最大都市ロンドンニューヨーク
政体議院内閣制 立憲君主国大統領制 連邦共和国
公用語英語連邦レベルでは指定無し(事実上英語を用いる)
GDP (名目)2兆6383億米ドル(一人当たり3万9229米ドル)20兆8,073億米ドル(一人当たり6万3051米ドル)
軍事費592億米ドル1兆9810億米ドル

概要

イギリスとアメリカ合衆国の両国関係は多くの複雑な関係を包含し、古くは2度の戦争から世界の市場を巡る競争まで様々な場に及んでいる。1940年以降イギリス・アメリカ合衆国両国は緊密な軍事同盟関係にあり、特別な関係(英語版)を享受しているが、これらは戦時同盟国およびNATOの同盟国として築かれたものである。

英米両国は歴史を共有し、宗教で重なり、共通の言語と法体系を持ち、そしてイングランド系アメリカ人・スコットランド系アメリカ人(英語版)・ウェールズ系アメリカ人(英語版)・スコッチアイリッシュ系アメリカ人(英語版)およびアメリカ系イギリス人(英語版)の各々の間に先祖代々受け継がれてきた親族の血統を含めて、過去数百年を辿ることの出来る血縁関係があることにより、互いに結びつけられている。今日では互いの国に移住する人々が両国共に多くいる。

戦争・反乱・仲違いと和平の時代を通して友好国・同盟国となるのはもちろんのこと、イギリスとアメリカはこれらの第二次世界大戦中に深く根付いた絆を固め、「特別な関係」として知られるまでになった。長期的な見通しでは、歴史家のポール・ジョンソンによれば、両国の関係は「現代の民主的な世界秩序の礎」("cornerstone of the modern, democratic world order")であると考えられている[1]

イギリスは20世紀初頭に現在の同国の外交政策における最も重要な2国間協力関係("most important bilateral partnership")としてのアメリカとの関係を確かなものとし[2]、対するアメリカの外交政策においても、アメリカ合衆国はイギリスとの関係を最も重要な関係であると認めており[3][4]、貿易・商業・金融・技術・学術・芸術・科学の各分野における一連の政事と相互協力さらに政府及び軍の諜報活動の共有、アメリカ軍イギリス軍の間で遂行される合同戦闘作戦や平和維持活動等にそれが裏付けられている。カナダは歴史的にアメリカ産商品の最大の輸入国かつアメリカ向け商品の主たる輸出国である。2015年1月時点でアメリカにとってイギリスは輸出の点では第5位、輸入の点では第7位の貿易相手国である[5]

英米両国は他の多くの国の文化にも大きな影響力を及ぼしている。イギリスとアメリカはアングロ圏(英語版)の二大結節点であり、2015年時点で両国の人口を合わせると約3億8500万人になる。両国は共に、現代世界の多くの部門において、英語を優位に立たせている。
政権の変遷

1940年以降のイギリスとアメリカの指導者たち
特別な関係ウィンストン・チャーチル首相とフランクリン・ルーズベルト大統領(1945年、ヤルタにて)「特別な関係(英語版)」も参照

特別な関係 (Special Relationship) とは、英米両国間の非常に緊密な政治的、外交的、文化的、経済的、軍事的、歴史的な関係であるとみなされている。特に1940年以降の両国関係について述べるときに用いられる表現である[6]
歴史
起源ピルグリムを乗せて1620年に新世界アメリカへと渡ったメイフラワー号(ウィリアム・ハルソール(英語版)の『The Mayflower in Plymouth Sound』〈1882年作〉による描写)「イギリスによるアメリカ大陸の植民地化」および「13植民地」も参照

幾度かの試行錯誤の末、1607年に北アメリカ本土における最初の永続的なイングランド植民地が英領バージニア植民地ジェームズタウンに設立された。1624年までに、英領バージニア植民地はロンドンのバージニア会社により治められる特許植民地 (charter colony) ではなくなり、直轄植民地 (crown colony) となった。ピルグリムはイングランドとアムステルダムを拠点とする小さなプロテスタント教派であったが、一派は入植者集団をメイフラワー号に乗せて派遣した。彼らはメイフラワー誓約を作成して自分達に広範な自治権を付与した後、1620年に小規模なプリマス植民地を設立した。1630年に清教徒らは、それよりもはるかに広いマサチューセッツ湾植民地を設立し、新世界(北米大陸)に新しく「より純粋な」教会を建てることで、イングランド国教会を改革しようとした。

これらを追うように、メイン植民地(英語版)(1622年)、17、メリーランド植民地(1632年)、ロードアイランド及びプロビデンス・プランテーション植民地(1636年)、コネチカット植民地(1636年)など、他にも植民地が設立された。その後、カロライナ植民地(1663年)が設立された(カロライナ植民地は、1729年にノースカロライナ植民地サウスカロライナ植民地に分割された)。ニューハンプシャー植民地は1691年に設立された。そして、1732年にジョージア植民地が設立された。

ニューヨーク植民地はイギリスがオランダの植民地ニューネーデルラントを征服して形成された。1674年、ニュージャージー植民地がニューヨーク植民地から分割されて設置された。1681年、ウィリアム・ペンが国王チャールズ2世より勅許を受けて、ペンシルベニア植民地を設立した。

各植民地はロンドンに対してそれぞれ別々に直属した。1686年から1689年までの間にに実施された、これらの植民地をドミニオン・オブ・ニューイングランド(英語版)という一つの王領にまとめる取り組みは失敗に終わった。
移民

17世紀中には、推定35万人のイングランド人とウェールズ人の移民が13植民地に永続住民として到着した。1707年の合同法の成立後の18世紀には、スコットランド人やアイルランド人の移民が、その割合と数において、先の移民らを上回った。[7]

イギリスによるアメリカ大陸の植民地化時期には、社会経済の発展にプラス関与する、自由主義的な行政、司法及び市場の諸制度がアメリカに導入された[8]。同時に、植民地政策は半重商主義的でもあり、大英帝国内での交易を奨励し、他の列強との貿易を阻害し、植民地における工業の興隆を抑止した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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