英学塾
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年12月)

英学(えいがく)とは、日本における英語及び英語圏諸国(イギリスアメリカなど)に関する学問・文化全般のこと。狭義においては英語学あるいはこれを中心とした英語主体の学問(英文学など)のことを指す。

幕末黒船来航以前は、西洋の学術はオランダ(ただし、中国経由の漢訳文献もある)から入ってきたために一括して蘭学と呼称されたが、黒船来航後は他の欧米諸国との交流が開始されるようになると、オランダ以外の言語やそれに基づく学術・知識も流入するようになった。このため、英語及びこれによって記載された英語圏の学術・技術に関する学問を「英学」と称するようになった。
日本の英学の歴史
江戸時代

江戸時代の日本は鎖国状態にあり、英語圏との関係は閉ざされていたが、これらの地域に関する関心度が低かった訳ではない。

文化5年(1808年)のフェートン号事件以後、江戸幕府においてイギリス・アメリカの脅威が議論の対象となり、これらの国々に対する研究が行われるようになった。翌年吉雄権之助らが幕命によって長崎出島のオランダ商館の荷倉役で英語に堪能であったヤン・コップ・ブロムホフより英語の教授を受け、文化8年(1811年)に『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』という会話・単語集が刊行されている。その後、文化11年(1814年)に『諳厄利亜語林大成』という6,000語からなる日本最初の本格的な英単語集が出された。天保12年(1844年)には天文方渋川敬直がLindley Murrayの英文法書のオランダ語訳からの重訳『英文鑑』を刊行した。

また、オランダ語中国語による英米関係の書籍を翻訳する動きも現れた。吉雄忠次郎が文政8年(1825年)に出した『諳厄利亜人性情志』や安部竜平が嘉永2年(1849年)に出した『新字小識』、小関高彦が安政元年(1854年)に出した『合衆国小誌』などである。

その後日本はアメリカの圧力で開国し、外交貿易の面で一部のエリートに国防の手段として英語の習得が急がれるようになった。安政2年(1855年)創設の「洋学所」(翌年「蕃書調所」、文久2年(1862年)「洋書調書」と改称)や安政5年(1858年)創設の「長崎英語伝習所」があげられる。

日本人で最初に生きた英語を話すことができたのはジョン万次郎であろう。彼は英語圏イマージョン・プログラムを受けた日本で初めての人物とも言える[1]
明治以降

明治以降の日本における英学の幕開けは福澤諭吉に始まる、といって過言ではない。咸臨丸などによる洋行経験もある福澤が慶応2年(1866年)に出した『西洋事情』は広く読まれ、彼が創設した慶應義塾では、ジェレミ・ベンサムヘンリー・バックルなどの著書を通じて英米の歴史・法制・思想などの研究が行われて官民に多くの人材を輩出した。

続いて中村正直サミュエル・スマイルズの『西国立志編』、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳して、自立・勤勉・節約などの近代資本主義社会の倫理を広めた。この他にも札幌農学校教頭ウィリアム・スミス・クラークに代表されるお雇い外国人同志社を創設した新島襄女子英学塾を創設した津田梅子などの功績は高く評価されている。

英文学の普及は少し遅れて1880年代以後のことになる。井上哲次郎らによる『新詩体抄』の翻訳、坪内逍遥の『小説神髄』による紹介などを通じて英文学が伝えられ、明治16年(1883年)2月に河島敬蔵が、日本初となる原本によるシェイクスピア劇の完全な逐語訳『ジュリアス・シーザー』を『欧州戯曲ジュリアスシーザルの劇』として発表した[2]


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