英一蝶
[Wikipedia|▼Menu]
英一蝶の肖像(早稲田大学図書館所蔵)雷神(もしくは落雷図。絹本着色)

英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日1724年2月7日))は、日本江戸時代中期(元禄期)の画家芸人本姓藤原多賀氏を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(ゐさぶらう)、次右衛門(じゑもん)、助之進(すけのしん)(もしくは助之丞(すけのじょう))。剃髪後に多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗るようになった。俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。

名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。尚、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りょうしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。
生涯英一蝶の墓を示す、承教寺の「史跡」の立て札英一蝶の墓(東京都港区、承教寺)

承応元年(1652年)、多賀伯庵(たがはくあん)の子として京都で生まれる[1]

父伯庵は伊勢亀山藩侍医、藩お抱えの国許の医師であったが、一蝶が15歳のころ(異説では8歳のころ)、藩主の石川憲之に付き従っての江戸詰めが決まり、一家で江戸へ転居する。

絵描きの才能を認められた一蝶は、藩主の命令で狩野派(江戸狩野)宗家の中橋狩野家当主狩野安信に入門したものの、後に破門されたと言われる。多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の俳諧に親しみ、俳人の宝井其角松尾芭蕉と交友を持つようになる。書道は玄竜門下に学ぶ。名を江戸中に知られるようになり、町人から旗本、諸大名豪商まで、広く親交を持つ。版画の作品はないが、肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残している。また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で自ら幇間としても活動していた。その話術や芸風は、豪商や大大名すらもついつい財布を緩め、ぱっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている。

元禄6年(1693年)、罪を得て入牢する。理由は不明で、2ヵ月後に釈放される。元禄11年(1698年)、今度は生類憐れみの令に対する違反(後述)により、三宅島流罪となった[2]

配流中の罪人には、親族から年数度の仕送り(物品)が許されていたが、一蝶は制限ある仕送りに毎度のように画材を要求。江戸の自分を贔屓にしてくれる人々や島で自分に便宜を図ってくれる人達のため、さらには江戸に残した母の家計のために、絵を描き続けた。乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いたりした多数の縁起絵などが残されている。一蝶はいつも江戸の方角へ机を向け、創作活動をしていたと伝わり、そこから「北窓翁」の雅号が生まれた。この時期の風俗画は、推定も含め『四季日待図巻』『吉原風俗図巻』『布晒舞図』『松風村雨図』の4点確認されている。画材こそ良質とはいえないが、江戸を偲び、我が身を省みて心情を託して描かれた作品群は、一蝶の代表作の一部として知られる。この時期に描かれた作品を特に島一蝶と呼ぶ。島一蝶は、一蝶を支援した御用船主の梅田藤右衛門がいた新島には16点が伝わり、御蔵島にも絵馬や『鍾馗図』が残る。一方、三宅島には『七福神図』一幅のみ、これは火山噴火や火災で失われたほか、江戸での島一蝶人気を受けて、島を訪れた富山の売薬行商人が買い漁り、持ち出されたためである。

島では、絵を売った収入で居宅を購入して「家持ち流人」となって商いも営み、島役人ともうまく付き合い、流人としてはゆとりのある暮らしをしていた[3]。世話をしてくれていた名主の娘との間に、子を成している(後述)。また、配流中の元禄15年(1702年)に、随筆『朝清水記(あさしみずき)』を記す。

宝永6年(1709年)、将軍徳川綱吉の死去による将軍代替わりの大赦によって許され、12年ぶりに江戸へ帰る。このころから英一蝶と名乗り、深川宜雲寺[4]に住まい、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef