苦力(クーリー、くりょく、タミル語: ????、英: coolie)とは、19世紀から20世紀初頭にかけての、中国人・インド人を中心とするアジア系の移民、もしくは出稼ぎの労働者である。
主に大英帝国の植民地、旧植民地であるアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ペルー、南アフリカ共和国、スリランカ、マレーシア、ハワイ、フィジー、モーリシャス、レユニオン島、西インド諸島、香港、シンガポール、ロシア等で低賃金で過酷な労働を強いられた。苦力の移民は「客頭」などのブローカー結社により組織的に行われ、こうした労働力を売買する商行為は「苦力貿易」と呼ばれた[1]。 奴隷制度が廃止された後、ヨーロッパ諸国の多くの植民地やアメリカで労働力が不足した。イギリスの植民地であったインド亜大陸の貧民層や、アヘン戦争後には、広東・福建両省を中心に、汕頭市、アモイ、マカオなどから労働力としてのクーリーが世界各地に送られた。当初はインド人労働者を指した呼び名であったが、後に中国人労働者に「苦力」という漢字をあてた。 アヘン戦争後に清がイギリスと結んだ南京条約や虎門寨追加条約、アメリカと結んだ望厦条約など、列強と結んだ不平等条約に規定された領事裁判権によって、列強国人は、清国人を誘拐まがいに連れてくることが容易になり、そうした行為を代行する清国人を保護することも簡単になり、貧乏農家の男の子を誘拐する手助けをし、それを清国政府が取り締まろうとするのを妨害した。アメリカは1847年と1849年に、苦力貿易をアメリカ商社が行うことを禁止する法律を成立させたが、その条文にはアメリカ商社が外国の港から外国の港へ運ぶ行為を罰する規定はなかった。その抜け道を利用して、ラッセル商会、オリファント商会
歴史
アメリカには大陸横断鉄道建設の労働者などとして使われ、中国からカリフォルニアに10万人以上が送られた。オーストラリアやマレーシア、マダガスカルなどにも、各々10万人程度が移住したとされる。また、ロシアでもシベリア鉄道建設の労働者などとして10万人以上が送られた[5]。こうした19世紀の移民によって、世界各地に華人社会の原型が形作られていった[1]。