若返りの泉
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クラナッハの絵画については「若返りの泉 (クラナッハの絵画)」をご覧ください。
ルーカス・クラナッハ作『若返りの泉
(ドイツ語原題:Der Jungbrunnen)絵画館 (ベルリン) 所蔵

若返りの泉(わかがえりのいずみ、英語表記:Fountain of Youth)とは、その水を飲むことで誰もが若返ると言われている伝説上の泉[1]。日本語では他に「青春の泉」[2]「回春の泉」等と訳される場合がある[3]。泉はフロリダにあると言われ、この泉にまつわる話はアメリカ合衆国に関連する中でも、最も長く続いている物語の一つである[2]
若返りの泉生命の水で魚が命を吹き返すのを見るアル・ヒドル(英語版)とアレクサンドロス

長らく続く話では、スペインの探検家フアン・ポンセ・デ・レオンが、1513年に現在のフロリダへ旅行した際に若返りの泉を探し求めていたとされるが[3]、泉の話自体はレオンから始まったものではなく[4]、また新世界特有のものでもない[5]。若さを取り戻す泉の物語は、その起源を少なくともアレクサンドロス・ロマンスの時代まで遡ることができ[6]、以降はヨーロッパ大航海時代までごく一般的だった。その後の伝説は、アレクサンドロス大王と彼の僕が、若さを取り戻させる泉を探すために「暗黒の土地」に渡ったとする、アレクサンドロス・ロマンス東洋版に登場した「命の泉」の話から由来したものである。その話に登場する王の僕は、コーラン中にも登場する賢人、アル・ヒドル(英語版)の中東における伝説が起源である。アルハミヤー文学及びアラビア語版のアレクサンドロス・ロマンスは、ムーア人の統治期間中、そして期間後のスペインにおいても国民によく知られており、アメリカ大陸に赴いた探検家たちも知っていたものと思われる[7]

泉の物語に関しては、出所が明確でないものが数え切れない程存在する[8]。数ある伝説の中でも、不死を求める話は度々取り上げられるものであり、また人類に不老不死を与えると解釈される賢者の石や、無限に寿命を延ばすとされるパナシア(万能薬)、エリクサー等のような話は、ユーラシア大陸をはじめあらゆる場所でよく聞かれる物語であった[9]。他に典拠の一つとして、ヨハネによる福音書に登場するベテスダの池がある。これはエルサレムにあり、イエス・キリストが病に苦しんでいた男性を癒したと言われている池である[10]
アラワク族とビミニ諸島

ネイティブ・アメリカンによる癒しの泉の物語は、伝説の土地「Beemeenee(ビーミーニー)」または「ビミニ」に関連している。北方のどこかにあると言われたこの地は富と繁栄の地で、現在のバハマの位置にあったと考えられている。伝承によれば、当時周囲一帯を実質支配していたスペイン人たちは、このビミニの話をイスパニョーラ島キューバプエルトリコにいたアラワク族から聞いたとされる。話では、その昔キューバのアラワク族の中にセケネ(Sequene)という名の族長がおり、ビミニやその若さを回復させる力がある泉の魅力にいてもたってもいられなかったという。族長は北方へ向かうために探検団を編成してビミニに到着し、若返りの泉周辺に住みついたあと、キューバに帰ることはなかった。話は楽観的なセケネの部族民たちにも広がり、彼らもまた族長らと同じく、ビミニで豪勢に過ごしたそうである[11]

ビミニとその回復の水の噂は、西インド諸島で広まった。イタリア出身の歴史研究家ピエトロ・マルティーレ・ダンギエーラは、1513年にローマ教皇にあてた手紙の中で、この泉の話に言及している。しかし、他の人々と同じく、彼はこうした物語を信じていなかった。
ポンセ・デ・レオンとフロリダフロリダで若返りの泉を探すレオン(1885年作)発見した泉の水を飲むレオンたち(19世紀に製作された想像図)

物語は、ポンセ・デ・レオンがプエルトリコを征服した際、現地の人々から泉の話を聞いたことへと続く。増えゆく物質的な裕福さに満足できず、レオンはその泉の場所を突き止めるべく探検隊を結成し、探検の過程でフロリダを発見した。彼はアメリカの土地を踏んだ初期のヨーロッパ人の内の一人ではあったが、結局若返りの泉を見つけることは無かった[4]

しかし、この話は不確かな点もある。ポンセ・デ・レオンは泉の話を聞いておりその存在を信じていただろうとされる一方で、彼が死去するまで諸作品における伝説と彼の名は結び付けられていない。

レオンと伝説を結びつけたのは、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・オビエド(英語版)の1535年の作品「Historia General y Natural de las Indias(インディアス全史)」である。オビエドはその著書の中で、ポンセ・デ・レオンは自身の精力減退を治癒するためにビミニの泉を探したのだと書いた[12]。同様の記述がフランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(英語版)著による1551年版の「インディアス全史」にも書かれている。

また、エルナンド・デ・エスカランテ・フォンタネダ(英語版)は、1575年の作品「Memoir(回想録)」の中で泉がフロリダにあるとし、そこでレオンがその水を探したと書いた。この記述は後にスペインの歴史家アントニオ・デ・エレラ・イ・トルデシージャスが記した、新世界におけるスペインの歴史にも影響を与える。フォンタネダは少年の頃に乗っていた船が座礁し、フロリダでインディアンの捕虜として17年間過ごした経験を持つ。彼の回想録では、彼が呼ぶところの失われた川「ヨルダン」を流れる若返りの水について触れ、レオンはこの水を探していたと言及した。しかし、フォンタネダ自身がこうして書いた内容には懐疑的であることを明らかにし、レオンがフロリダを訪れた時、実際にその伝説的な水を探していたかどうかについては疑わしいと述べた。

歴史家エレラは、作品「Historia general de los hechos de los Castellanos en las islas y tierra firme del Mar Oceano」を含む、フォンタネダの話をもとにして描いた作品で、フロリダの話について触れている。エレラはカシケ(caciques)と呼ばれる地元の長が、頻繁に泉を訪れていたと述べた。とある貧弱な老人の男性は、泉に入って完全な若さを取り戻し、「ありとあらゆることをまた出来るようになった…新しい妻をめとり、より多くの子供を授かることもできた」という。エレラはまた、スペイン人は伝説の泉を探すために、フロリダ沿岸に沿って全ての「川、小川、潟や池」を探したが、ついに泉を発見できなかったと加えている。セケネの話も同様に歪曲されたフォンタネダの話に基づいたものだったとされる。
初期の伝説

上記のとおり、当時のヨーロッパ人にとって若返りの泉の概念は、西インド諸島に住む人々から話を聞いた当時、既に馴染みのあるものだった。若返りの泉または井戸の話は「アレクサンドロス・ロマンス」をはじめ[6]、「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」や旧世界が古きものとされる更に以前の、プレスター・ジョンに関連する手記にも登場している。プレスター・ジョンの手紙(1165年)には、「山裾には泉が湧き上がる。この泉を口にしたものは、皆その命が続く限り30歳のままでいられるのだ。」とある[13]

当時の探検家たちには新しく発見した場所を、それまで読んだことのある空想の旅を扱った本に基づいて考える習慣があった。これはアマゾニア(アマゾン熱帯雨林)のネーミングや、エチオピアの王はプレスター・ジョンであったという主張、またエデンの園アジアやアメリカで見つかるといった空想に表れている。


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