若羽黒朋明
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若羽黒 朋明

1959年
基礎情報
四股名若羽黒 朋明
本名草深 朋明
愛称立浪四天王
角界の異端児
ドライ坊や(ボーイ)[1]
ブルドーザー
の反逆児(自称)[2]
生年月日1934年11月25日
没年月日 (1969-03-03) 1969年3月3日(34歳没)
出身神奈川県横浜市中区曙町
身長176cm
体重150kg
BMI50.04
所属部屋立浪部屋
得意技左四つ、寄り、押し
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴555勝480敗40休(74場所)
幕内戦歴423勝381敗36休(56場所)
優勝幕内最高優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞2回
データ
初土俵1949年10月場所[1]
入幕1955年3月場所[1]
引退1965年3月場所(番付記載のみ)[1]
引退後おにぎり屋経営→相撲料理店勤務
趣味バンド演奏、車の運転
備考
金星4個(吉葉山潤之輔3個、栃錦清隆1個)
2019年6月10日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

若羽黒 朋明(わかはぐろ ともあき、1934年11月25日 - 1969年3月3日[3])は、神奈川県横浜市中区曙町出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は草深 朋明(くさぶか ともあき)。最高位は東大関
来歴
相撲観戦から角界入り

1934年11月25日に、神奈川県横浜市クリーニング店を営む草深栄吉の長男として誕生した。後に愛称となる「ドライ坊や(ボーイ)」は、実家がクリーニング店であることに由来する。幼少期から体格が良く、小学一年生の時点で相撲で六年生を破るなど、近所ではわんぱく大将として鳴らした。横浜市立吉田中学校では水泳選手として活躍していたが、中学三年生のある日に栄吉と親しかった行司が自宅を訪ねてきて、恵まれた体格から角界入りを勧められた[1]。あまりにも突然の勧誘で戸惑ったためにまずは相撲観戦から始まり、それでも入門を尻込みしていると立浪から「部屋でゆっくり遊んで行きなさい」と言われた。部屋で2?3日遊んでいるうちに北海道巡業へ誘われ、現地で「廻しを付けて相撲を取ってみろ」と言われたことでそのまま立浪部屋へ入門した。恵まれた体格だったが入門前の激しい稽古によって体重が基準を下回ったために新弟子検査では直前に水をがぶ飲みして受験したが、21貫(79kg)と言われて足元を見ると、立会人かつ部屋付き親方だった白玉が秤に片足を載せて助けていた。

1949年10月場所で初土俵を踏んだが、その時はまだ14歳だった。1950年1月場所で番付に自身の名が記載されたが、四股名にどうしても「若」の字が欲しかったことから同部屋の大先輩の横綱・羽黒山政司に因んだ「若羽黒」となった。しかし、小島貞二は若羽黒の四股名について、「むしろ安念山のほうが、そういった感じがするんですけどね」と立浪の部屋持ち時代に語っている。
柏鵬の反逆児

非力でポッチャリしていたため、立浪からは何が何でも押しに徹するように指導を受けた[4]。これが功を奏し、1954年3月場所で新十両、1955年3月場所で20歳3か月で新入幕を果たした。一年後の1956年3月場所では東前頭15枚目で12勝3敗と好成績を残し、朝汐太郎若ノ花幹士との優勝決定巴戦に出場した[1]ものの平幕下位の若羽黒には荷が重く、あっさり敗退してしまった。それでも活躍が認められて、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。その後は幕内上位から三役に定着し、1959年9月場所では関脇で12勝3敗と好成績を挙げ、場所後に大関へ昇進した。この昇進は大相撲が年6場所制になった1958年以降では史上初の大関となった。その新大関の同年11月場所では13勝2敗と入幕以来、自己最高の成績を挙げ、幕内最高優勝を果たし、この優勝を同場所限りで引退する「ひげの伊之助」への餞とした。同年12月には、自身の大関昇進披露と結婚披露宴を帝国ホテルにて同時に開催し、長嶋茂雄らが参列して祝福した[1]

新大関の場所で幕内最高優勝を果たしたことから、周囲からは「押しの横綱が誕生か」「武蔵山以来2例目となる神奈川県からの横綱昇進なるか」と言われ始めた。若羽黒の体型はゴムまりを思わせる球体のようなアンコ型で、しつこくネチネチと押して行く独特の押し相撲が持ち味だった。しかし、綱獲り場所となった1960年1月場所で不覚にも7勝8敗と負け越しを喫すると、それ以降は横綱昇進どころか二度と「綱獲り場所」を迎えることが出来なかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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