若秩父 高明
基礎情報
四股名若秩父 高明
本名加藤 高明
愛称秩父の怪童・七人の侍・あんちゃん
ハイティーントリオ・ハイティーン三役
花籠七若・おひつ
生年月日1939年3月16日
没年月日 (2014-09-16) 2014年9月16日(75歳没)
出身埼玉県秩父郡高篠村(現:秩父市)
出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道(日本統治下時代)
身長175cm
体重150kg
BMI48.98
所属部屋花籠部屋
得意技左四つ、吊り、寄り
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴570勝527敗5休(80場所)
幕内戦歴367勝398敗(51場所)
優勝十両優勝2回
幕下優勝1回
序二段優勝1回
賞敢闘賞2回
データ
初土俵1954年5月場所[1]
入幕1958年9月場所[1]
引退1968年11月場所[1]
備考
金星3個(千代の山1個、栃ノ海2個)
2014年9月17日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲
若秩父 高明(わかちちぶ こうめい、1939年3月16日 - 2014年9月16日)は、埼玉県秩父郡高篠村(現:埼玉県秩父市)出身[2]で花籠部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 高明(かとう こうめい)。最高位は西関脇(1963年7月場所・同年9月場所)。現役時代の体格は175cm、150kg。得意手は左四つ、吊り、寄り[1]。
本名は周囲から「たかあき」と読まれることが多いそうだが、本名・四股名共に読みは「こうめい」である。 1939年3月16日に埼玉県秩父郡高篠村(現:埼玉県秩父市)の大日本帝国陸軍軍人の家に長男として生まれる。小学生の頃から大食いで体格が大きくなり、高篠中学校では相撲部に所属して毎日一升の飯を食い、秩父郡の相撲大会で活躍した。1954年に埼玉県立秩父農工高等学校へ進学したが、ある休日に花籠部屋が2代花籠(住ノ江平五郎)の追善興行を行っていると聞いて見学に行くと、小部屋であるがゆえに間が持てないとして飛び入り参加を許された。何番が相撲を取った後に花籠から見い出されて勧誘され、相撲が好きだったので入門しようとするが母に反対された。しかし、2代花籠の墓を発見した張本人である地元の外科病院長と花籠がすぐに母を直接説得して入門を了承したため、中途退学して花籠部屋へ入門した。 1954年5月場所に於いて、15歳で初土俵を踏んだ。四股名は、故郷・埼玉県秩父と兄弟子の若乃花幹士(第45代横綱)から「若秩父」と命名され、序ノ口に付いてから引退するまでこの名で通した。 入門してからえびすこぶりは相変わらずであり、幕下時代は毎食どんぶり飯10杯を食べたという。若乃花からの直々の指導は特に効果があり、また若秩父自身も稽古熱心であることから出世も順調で、1958年1月場所で新十両昇進。因みに、幕下通過までの間に45kgの増量を果たしたという。同年5月場所では富樫剛・北葉山英俊・明歩谷清・玉響克己・冨士錦章・若三杉彰晃と自身を加えた7人による十両優勝決定戦を制し、十両優勝を果たした。この時の7人は全員が若い有望力士だった[3]ことから、黒澤明監督の映画を捩って「7人の侍」と呼ばれた。 7人による十両優勝決定戦を制して十両優勝し、2場所後に新入幕を果たした若秩父は、新入幕の場所となった同年9月場所にていきなり12勝3敗と好成績を残す。この場所では、敢闘賞を受賞して注目された。当時19歳の若武者だったことから、同時に新入幕した富樫や豊ノ海義美と共に、「ハイティーン・トリオ」と呼ばれ[1]、注目された[4]。 1959年1月場所では横綱・千代の山雅信に引導を渡す金星を奪ったが、この取組は後に若秩父本人が停年退職前最後のテレビ出演となったNHK大相撲中継で向正面に座った際、「生涯最高の思い出の取組」として選択した。なお、この時の正面解説は、偶然にも千代の山(年寄・九重)の弟子であった北の富士勝昭だった。 この場所では10勝5敗と大きく勝ち越して2度目の敢闘賞を受賞し、翌場所に於いて19歳11ヶ月という若さで新小結に昇進し、史上初の10代の三役力士となった[1][5]。 1960年5月場所では、優勝次点となる13勝2敗という好成績を残しながらも西前頭14枚目という低地位から、三賞を見送られた[6]。 巨腹を使っての吊り・寄り[1]と、どんな古参力士にも物怖じしない性格で素質にも恵まれ、さらに若乃花からの熱心な指導とそれを受けて熱心に稽古に打ち込む姿勢から大関昇進を期待された。しかし、当時「力士の職業病」とも呼ばれていた糖尿病を患ったことで大関昇進どころか三役定着すら果たすことができず、その後は幕内の座を明け渡すこともあった。それでも、禁酒・禁煙を実行、食事もパン・豆腐・蜂蜜を食べる節制に努めて決して休場せずに再入幕を果たし、その姿は他の力士から模範とされた。さらに、ある年の11月場所で負け越し、ゲン直しとして中洲で飲酒している時に絡んできた泥酔客を軽く振り払おうとして吹っ飛ばしたことが「暴力」と報じられた鬱憤を晴らそうと、制限時間一杯の際に大量の塩を高々と撒き始めた[7]。この塩撒きは、若秩父の入幕時点で既に幕内在位10年以上のベテランであり、指先で少量の塩を取って撒いていた出羽錦忠雄のそれと比較され「塩などは 安いもんだと 若秩父」「出羽錦 塩の値段を 知っており」と川柳にも詠まれたことがある。 1968年11月場所を最後に現役を引退し、年寄・関ノ戸を経て同・常盤山を襲名した。引退以来、花籠部屋付きの親方として後輩の指導に全力を尽くしたが、1985年12月の花籠部屋閉鎖によって部屋継承を辞退、放駒部屋へ移籍した。1998年には日本相撲協会監事(現:副理事)へ就任し、巡業部副部長も歴任した。 2004年3月場所中に65歳の誕生日を迎えた。本来は65歳の誕生日前日に停年退職するが、本場所開催期間中に誕生日を迎える場合はその場所の千秋楽まで親方として職務を続け、「千秋楽で停年に達した」という扱いとなるため、同場所の千秋楽を最後に停年退職した。 2014年9月16日午後6時45分、肝不全のため東京都三鷹市内の病院で死去。75歳没[8]。
来歴
主な戦績
通算成績:570勝527敗5休 勝率.520
幕内成績:367勝398敗 勝率.480
現役在位:80場所
幕内在位:51場所
三役在位:6場所(関脇2場所、小結4場所)
連続出場:1097回(1954年9月場所 - 1968年11月場所(10日目、引退))
三賞:2回
敢闘賞:2回(1958年9月場所、1959年1月場所)
雷電賞:1回(1964年11月場所)
金星:3個(千代の山1個、栃ノ海2個)