若生智男
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若生忠男」とは異なります。

若生 智男基本情報
国籍 日本
出身地宮城県仙台市太白区
生年月日 (1937-04-05) 1937年4月5日
没年月日 (2024-06-03) 2024年6月3日(87歳没)
身長
体重182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1956年
初出場1956年8月23日
最終出場1976年9月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


東北高等学校

毎日オリオンズ
大毎オリオンズ
(1956 - 1963)

阪神タイガース (1964 - 1974)

広島東洋カープ (1975 - 1976)

監督・コーチ歴


阪神タイガース (1970 - 1972)

広島東洋カープ (1977 - 1978)

ロッテオリオンズ (1979 - 1983)

阪神タイガース (1984 - 1985)

ロッテオリオンズ (1987)

阪神タイガース (1988 - 1989)

福岡ダイエーホークス (1990 - 1992)

横浜ベイスターズ (1993 - 1996)

チーム・エネルゲン

千葉熱血MAKING

千葉日本大学第一高等学校

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

若生 智男(わこう ともお、1937年4月5日 - 2024年6月3日)は、宮城県仙台市太白区出身のプロ野球選手投手)・コーチ評論家
経歴

兄には仙台商業高校元監督で宮城県野球連盟会長を務めた若生久二雄、弟には埼玉栄高校元監督の若生正廣がいる。東北高校時代は若生忠男西鉄巨人)・若生照元中大大洋)と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった[1]

卒業後の1956年毎日オリオンズへ入団し、8月23日阪急戦(駒澤)に和田功中西勝己の3番手で初登板。9月3日大映戦(後楽園)では先発に起用されるが、5回途中で降板。

2年目の1957年8月18日の大映戦(西京極)で初勝利を挙げ、10月23日から同24日東映3連戦(駒澤)では2勝を記録。

3年目の1958年は再び0勝に終わったが、1959年には10月だけで3勝をマーク。3勝中2勝を西鉄から挙げており、同17日の西鉄戦(後楽園)では初完封を記録。

1960年には初の2桁となる13勝を挙げ、規定投球回(4位、防御率2.15)にも達し10年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献。大洋との日本シリーズでは10月12日の第2戦(川崎)に先発、同14日の第3戦(後楽園)に三平晴樹の2番手で登板。

大柄でがっちりとした体格からあまり体に負担をかけない投法で、小野正一に次ぐ投手として活躍[2]。打たれて悩んだ時には荒巻淳が支えとなり、若生も一軍で荒巻のゲーム運びや、投げる姿を参考にして、自分の成績に繋げた[3]。当時は球界屈指のスピードで「和製火の玉投手」と言われた荒巻の球速がありながら、力任せに投げない姿は参考になった[3]

1962年には2年ぶりの2桁で自己最多の15勝を挙げるが、1963年に故障。

1964年には小山正明山内一弘の「世紀のトレード」に並行して、マイク・ソロムコと交換で阪神タイガースへ移籍。


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