若浪順
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若浪 順

基礎情報
四股名富山 順→冨山 順→若浪 順
本名冨山 順
生年月日
1941年3月1日
没年月日 (2007-04-16) 2007年4月16日(66歳没)
出身茨城県猿島郡七郷村(現・坂東市
身長178cm
体重103kg
BMI32.50
所属部屋立浪部屋
得意技左四つ、寄り、吊り、うっちゃり
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴568勝557敗20休(90場所)
幕内戦歴351勝429敗(52場所)
優勝幕内最高優勝1回
十両優勝1回
幕下優勝2回
敢闘賞2回
技能賞2回
データ
初土俵1957年3月場所[1]
入幕1963年5月場所[1]
引退1972年3月場所[1]
引退後年寄大鳴戸→同・玉垣
備考
金星3個(栃ノ海1個、柏戸1個、北の富士1個)
2012年12月25日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

若浪 順(わかなみ じゅん、1941年3月1日 - 2007年4月16日)は、茨城県猿島郡七郷村(のち同郡岩井町→岩井市、現・坂東市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は冨山 順(とみやま じゅん)。最高位は東小結(1968年5月場所)。現役時代の体格は178cm、103kg。得意手は左四つ、寄り、吊り、うっちゃり[1]

引退後は、年寄大鳴戸から同・玉垣を襲名した。
来歴

実家は農家で土地相撲の大関を務めた父に似たのか、幼少の頃から怪力で、小学生の時に米俵を持ち上げ兄弟達を驚かせていた。自身の証言によると、米俵を担いだのは中学1年生の頃であり、2年生の時には80sの墓石を持ち上げた。兄弟はみな力が強く、冨山も野球柔道走り高跳び砲丸投げで体を鍛えた[2]。中学時代、当時人気絶頂にあった若ノ花に憧れて力士になることを志し、まず中学1年の時に立浪部屋へ入門を志願しに行ったが、立浪から「こんな体じゃだめだ。もう1年くらい遊んでから来い」と言われた。さらに、呼出床山の志願者と間違われ、身長179cmで体重が86sあった連れ添いの7つ年上の兄の方が力士志望であるのではと間違われた[2]。しかし立浪部屋付きの大島が「無駄メシ食うくらいいいじゃないですか」と入門を後押しし、中学校卒業後に立浪部屋へ入門した[1]。入門が実現した背景には冨山の中学時代には故郷の七郷村の近所に住んでいた七ッ海が紹介してくれたこともあった[2]

だが1957年昭和32年)1月の新弟子検査では体重不足で不合格、次の3月に目零しで合格させてもらって初土俵。立浪からは「押せ」と言われず「お前は吊りがあるんだから、吊りに専念せい」と言われ、自由に引っ張り込む四つ相撲を取って素養を伸ばした[2]。新十両昇進は1961年(昭和36年)3月場所、1963年(昭和38年)5月場所に新入幕を果たした。体重は幕内優勝を果たした後の一時期によやく100kgに達し、普段は92sから93s程度(ただし公称は103kg)という小兵で「ちびっ子」と呼ばれていたが持ち前の怪力を活かした吊りが得意[3]で、右上手を取れば怪力無双であり[1]、体重200kgと自分の倍以上もある見山さえも吊り上げようとした程である。所謂『目まで吊る』と形容される、相手を高々と吊り上げて土俵外まで運ぶ豪快なものだった。同じく吊りを得意とする明武谷陸奥嵐との対戦は、常に好取組として人気があった。対戦成績は対明武谷が6勝9敗、対陸奥嵐は6勝8敗。本人は「吊り上げれば相手は反撃できないから有利だけど、相手も吊りが得意だと吊り上げようとして逆に吊り出されたりもした」と言っていた。胸毛や濃いもみ上げも若浪の特徴であった[3]

十両2場所目に右足首を複雑骨折[1]、針金や金の蝶つがいを入れてどうにか治したが、神経が切れたので直ってもしばらく右足の感覚が失われたままで、右の雪駄が脱げても分からずを剥がされても痛くない程だったという。その後も寒い日には足が動かないなど苦難を経験した[2]

前頭8枚目にあった1968年(昭和43年)3月場所、12勝2敗で千秋楽を迎える。ここまで2敗の力士は大関豊山と小結・麒麟児(のち大麒麟)、そして若浪と合わせて3人であった。千秋楽、まず若浪が勝って13勝2敗。ところが後2人の2敗力士が揃って負けたため、優勝が決まった[4][3]。この結果、天皇賜杯制度ができてから最軽量の幕内最高優勝力士となった(97s)[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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