若沢寺
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若沢寺(廃寺)

所在地長野県松本市波田上波田寺山の山中
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度10分53.0秒 東経137度50分02.0秒 / 北緯36.181389度 東経137.833889度 / 36.181389; 137.833889座標: 北緯36度10分53.0秒 東経137度50分02.0秒 / 北緯36.181389度 東経137.833889度 / 36.181389; 137.833889
山号慈眼山(または水沢山)
宗旨真言宗
創建年天平勝宝年間(750年ころ)(伝承)
開基行基(伝承)
中興坂上田村麻呂(伝承)
札所等信濃三十三所観音25番札所(往時)
文化財銅造菩薩半跏像・銅造伝薬師如来坐像御正体残闕など。現在は盛泉寺に所蔵
法人番号3100005006070

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若沢寺(にゃくたくじ)は、長野県松本市波田にあった真言宗寺院。山号は慈眼山(じげんざん)。天平勝宝年間に行基が創建したとされ、江戸時代後期には信濃日光と称されるほどの規模を持ったが、廃仏毀釈明治4年9月に無檀帰俗のため廃寺とされた[1]。若澤寺とも書かれる。
概要

若沢寺は水沢山の山腹にあった。行基が創建し、後に坂上田村麻呂が東征の折に再興させたとの伝承がある。

跡地は、2011年3月22日に松本市特別史跡に指定された[2]。標高約940mで、江戸期から数段に造成され、各段に庫裏・中堂救世殿・金堂・田村堂などが造られた。廃寺後も、それらの礎石が残っている。往時の寺の境内は周囲13kmあったというが、現在の広さは約1万1000平方メートルであり、周囲は国有林になっている。

若沢寺にあった建物群のうち、「田村堂」と呼ばれる厨子1つが地元集落に移されて残っている[3]。信仰の対象になっていた仏像も各地に散った。うち数体が地元の盛泉寺に保存・安置されている。

若沢寺跡に建てられた石碑

若沢寺への道程を示していた「丁石」

もと若沢寺の六地蔵。今は盛泉寺に鎮座。

金堂跡。発掘調査中。2005年8月11日撮影

歴史

奈良時代の天平勝宝年間(749年 - 758年)に行基が開山したと伝えられ、水沢山の山頂近くに開かれた。その場所は後に「元寺場(もとてらば)」と呼ばれた。平安時代の顕密系寺院は山中に建立されることが一般的で、こうした寺はその後、山中から山腹・山麓に下りて造りなおされたものが多い(清水寺の「山中高所の寺院」の項を参照)。若沢寺もその1つで、「元寺場」はそうした山岳信仰の時代の寺跡であると考えられている。「元寺場跡」は、2012年3月26日に松本市重要文化財に指定された[2]

平安時代大同年間(806年 - 809年)に坂上田村麻呂が東征の途次、配下の仏師に命じて修復・造営させた(『信府統記』、『善光寺道名所図会』)と伝えられる。長野県では最古に近い寺であったと言われる。

中世においては、武田勝頼などの武将からの寄進・保護を受けた。江戸時代には徳川家光などの歴代将軍から寺領10石を安堵され、計8通の朱印安堵状を受ける。『善光寺道名所図会』には、「上波田村水沢にあり。真言宗京都智積院に属す。寺領十石、境内囲三里半程、末寺四ケ寺」とある。

江戸時代末期、1804年文化初年)の改築後は、奥院・中院・里院に壮大な七堂伽藍を構えていた。信濃日光と称され、文人墨客の杖をひくこと後を絶たなかったという。信濃三十三所観音の25番札所でもあった。

しかし明治初年、松本藩戸田光則は、戊辰戦争に朝廷側として参加することに遅れ謹慎処分を受けたことから、新政府の信頼を回復するため廃仏毀釈に熱心に取り組んだ。また、戸田光則が朱子学に熱心で、その配下にも朱子学・水戸学を奉じる大参事稲村久兵衛、国粋家の小参事神方神五左衛門・岩崎作楽がいたことから、廃仏毀釈に熱心で激しくなったと言われる[4]。結果として、松本藩内では、真言宗の寺10と日蓮宗の寺4つがすべて、浄土宗の寺は30のうち27が、曹洞宗の寺は40のうち31が、浄土真宗の寺は8つのうち1つが廃寺とされた。若沢寺にあった仏像の多くが、同じ波田町中波田の盛泉寺(曹洞宗)に移され安置されている。

1871年(明治4年)7月に廃藩置県の令が出て、11月16日には松本藩が廃止され、戸田光則は藩知事を免官になったので東京に移り、廃仏のことはうやむやになった[4]。そこで、いくつかの寺では再興の動きもあらわれた。しかし、若沢寺は檀徒が少なく再興はなく、先住職堯賢は出身寺に戻り、住職堯榮は還俗して農業につき1875年に没した。
田村堂

若沢寺の本尊を安置する厨子であったが、江戸時代には坂上田村麻呂を祀るようになったことから、田村堂と呼ばれる。若沢寺を示す絵図「若澤寺一山之略絵図」にも、境内の最上段に描かれている。若沢寺の廃仏毀釈にあたって、波田上波田集落の現在地へ移され、現在は覆屋で保護されている。1953年8月に国の重要文化財に指定された[5]
文化財毎年4月第3土曜・日曜日に行われる仁王尊の「股くぐり祭り」の遠景。黒屋根・朱塗りの仁王門に2体の仁王像が納められている。写真は2011年
木像(金剛力士像)

若沢寺の末寺だった西光寺に造立され、胎内墨書銘には1322年(元亨2年)大檀那源重久佛師善光寺妙海の造立とある。元禄年間(1700年ころ)に現在地に移転されて以来、この2つの金剛力士像を納める仁王門が若沢寺の山門とされた。若沢寺は山中の寺院であったが、仁王門は集落内の街道沿いにある。廃仏毀釈の際も破壊されず、現存している。左(向かって右)が阿形、右が吽形である。地元では「仁王様」と呼ぶ。1974年1月に県宝に指定された[6]

仁王門は中央部が通路になっていて、常時通ることができる。しかし金剛力士像に触れることはできない。毎年4月20日前後の週末2日間に仁王尊股くぐり祭りが行われる。これは、幼児を向かって右の阿形像の両足の間に入れて、右足と衣の裾の間をくぐらせる行事である。昔ハシカが流行した際に、仁王像の股をくぐったことでハシカが軽くすんだとの故事に由来したもので、2日間に1000組以上が来場するという。学齢期前くらいまでの体のサイズであればくぐることができる。2012年の祭りは4月21日?22日で、25回目の仁王尊股くぐり祭りだった[7]。入場無料・駐車無料、地元ボランティアによる駐車誘導がある。
銅造菩薩半跏思惟像
銅造菩薩半跏思惟像。納めてある厨子は現代の物。写真は2017年5月

奈良時代末の作。1998年(平成10年)10月26日県宝に指定された[6]。盛泉寺蔵。半跏思惟像である。半跏思惟像は白鳳時代に作られたものが多いが、小作りの目鼻立ちと柔和な面持ちから、奈良時代後期の作と鑑定されている。廃仏毀釈までは若沢寺にあった。像高22cm。
銅造伝薬師如来坐像御正体残闕(懸仏

鎌倉時代後期の作。1999年(平成11年)3月18日県宝に指定された[6]。盛泉寺蔵。若沢寺の懸仏であったといわれる。穏やかな面相、流れるような衣文、体躯全体のバランス等、鎌倉時代後期の特徴を良く残す。左手の薬壷、後背は後に加えられた。
銅像薬師如来坐像御正体残闕

鎌倉時代後期の作。2011年3月22日に松本市重要文化財に指定された[2]。元は背面に鏡が取り付けられていた御正体(懸仏)で、若沢寺の仏像だったといわれる。薬師如来としては珍しく「波状髪」(渦を巻き、波型に刻まれた頭髪)である。後背は後に加えられた。
銅造菩薩立像

室町時代初期の作。2011年3月22日に松本市重要文化財に指定された[2]。盛泉寺蔵。八角宝冠を戴き、両手を曲げ、胸の前で左手拳を上に右手を重ね梵篋印を結ぶ立像である。若沢寺の仏で、善光寺式阿弥陀三尊像脇侍の一体だったと考えられる。
木像(不動明王立像)

鎌倉時代末期の作。2011年3月22日に松本市重要文化財に指定された[2]。盛泉寺蔵。右手に剣、左手に羂索をもち、玉眼を光らせ、岩座に立つ忿怒相の明王である。火焔は後補。もとは若沢寺の講堂(護摩堂)本尊として安置され、「水沢不動」と呼ばれた。
真言宗祖師像(木像弘法大師坐像・木像興教大師坐像)2体


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