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日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}若槻(わかつき) 礼次郎(れいじろう).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}若槻 禮次󠄁カ
礼装である大礼服を着用した若槻礼次郎
生年月日1866年3月21日
(慶応2年2月5日)
出生地 日本 出雲国松江雑賀町
若槻 礼次郎(わかつき れいじろう、旧字体:若槻 禮次󠄁カ、1866年3月21日〈慶応2年2月5日〉- 1949年〈昭和24年〉11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。栄典は正二位勲一等男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。
貴族院議員、大蔵大臣(第18・20代)、内務大臣(第41・42代)、内閣総理大臣(第25・28代)、拓務大臣(第4代)を歴任した。 松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。 実母・クラは禮次郎が3歳のころに急死した。このころ、長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めた[2]。 奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中心部に家を構えることもできず、場末ともいうべき外れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父・仙三郎は西田中という所に小さな家を新築した[2]。 奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。幼少のころはまだ帯刀であり、礼次郎は木刀一本を腰に差して寺子屋に通った[注釈 1]。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科(現・島根県立松江北高等学校)に入る。しかし家が貧乏で学資が続かず、在学8ヵ月か9ヵ月で中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをした。 16歳のころから3年ほど、小学校代用教員をする。明治15年(1883年)、陸軍士官学校の生徒募集があった。官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査で不合格となる。 その翌年、司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り飛び立つ思いであったが、上京する費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父・若槻敬に相談し、30円の金を借りて、明治16年(1884年)7月ごろ、数えで19の年に松江を出た[3]。 東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。岸とは血のつながりはないが、近い親戚であった[4]。
生涯
生い立ち
学生時代