わかまつ こうじ
若松 孝二
『映画評論』1967年6月号より。
本名伊藤 孝
生年月日 (1936-04-01) 1936年4月1日
没年月日 (2012-10-17) 2012年10月17日(76歳没)
出生地宮城県遠田郡涌谷町
死没地東京都
国籍 日本
職業映画監督
ジャンルピンク映画、クライム映画、ドキュメンタリー等
活動期間1963年 - 2012年
公式サイト ⇒若松孝二公式サイト
受賞
ベルリン国際映画祭
最優秀アジア映画賞
若松 孝二(わかまつ こうじ、1936年〈昭和11年〉4月1日 - 2012年〈平成24年〉10月17日)は、日本の映画監督・映画プロデューサー・脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝(いとう たかし)。 宮城県遠田郡涌谷町出身。父親は馬喰で獣医をしていたが大酒飲みで、孝は幼いときからこの父に反抗しながら育った[1]。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、新宿安田組の大幹部だったヤクザ(荒木恷)の下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、拘置所に拘禁され執行猶予付の判決を受ける。(その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は“警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になっている。) その後、職を転々としテレビ映画の助監督になる[3]。弟子の井上淳一は「私の師匠若松孝二は若い時、新宿の安田組にいて、撮影現場の交通整理をしていて助監督になった人です」と述べている[4]。2005年にドイツフランクフルトで「ニッポン・コネクション」という日本映画祭があり、若松が飛行機の機内で映画を観ていて、隣りの荒井晴彦に「荒井、これ面白いな」というから荒井が「何ですか?」と聞いたらその映画が『仁義なき戦い』で[4]、「今ごろ観てるんですか!深作さん、お友達じゃないですか」と言ったら「俺、やくざ、嫌いだもの」と言ったという[4]。 ある現場でシナリオの改変に腹を立ててプロデューサーを殴り、その場でクビになる。その後ピンク映画の企画が巡って来た事が転機となり、1963年にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビュー。本作の制作にあたり、若松は自ら制作費の150万円を出して撮影した[5]。低予算ながらも圧倒的な迫力ある映像でピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されヒット作を量産する。若松孝二の映画作りの原点は“怒り”であり反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持される。1965年『壁の中の秘事』が日本映画製作者連盟推薦の大映作品などを差し置いてベルリン国際映画祭正式上映作品となり、評論家による「国辱」発言などもあってセンセーショナルな騒動となった[注釈 1]ことから、若松の名前はピンク映画業界を超えて一般に広く知れ渡った。また、それ以降亡くなるまでスキャンダラスな作品をエネルギッシュに次々と発表することとなる[5]。 1965年「若松プロダクション」を創設、足立正生や大和屋竺などの人材が集まる。作品は学生運動を行っていた若者たちなどから支持を受けたが、若松自身は「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と語っている[6]。自分自身が面白いと思った映画を撮っているとのこと。のちに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮影した時は、前売り券の購入を昔の学生運動家に頼んだものの全く買ってくれなかったという[7]。 1986年には製作費6000万円を東映とで出資し[8]『松居一代の衝撃』を製作したが[8][9][10]、内容が風俗法に引っ掛かり[8]、岡田茂東映社長が警視庁から呼び出しを受け[8]、「日本の普通の劇場では上映しない」と約束した[8][9]。このため成人映画扱いを余儀なくされ、配給を変更しピンク映画の劇場で小規模上映したが[8]、大赤字を出して[8][9]、若松プロがあった原宿セントラルアパートのマンションを売って借金返済に充てた[8][9]。この後は自分が借金して映画を作ることは出来なくなった[8]。 若松作品は海外での評価も高い[11]。元ソニック・ユースのジム・オルークは若松の映画音楽を作りたいがために日本語を習得した[12]。 プロデュース作品としては、大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(1967年)、足立正生監督『女学生ゲリラ』(1969年)、大島渚監督『愛のコリーダ』(1976年)、神代辰巳監督『赤い帽子の女』(1982年)、木俣堯喬監督『鍵』(1983年、兼演出)等がある。 音楽ビデオクリップとしては唯一、ソウル・フラワー・ユニオンを手がけたことがあり、1998年、アイルランドにて「イーチ・リトル・シング」と「風の市」を撮影している。
経歴・人物