若松勉
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若松 勉2019年2月10日
基本情報
国籍 日本
出身地北海道留萌市
生年月日 (1947-04-17) 1947年4月17日(76歳)
身長
体重168 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション外野手
プロ入り1970年 ドラフト3位
初出場1971年4月11日
最終出場1989年10月17日(公式戦)
1990年3月22日(引退試合)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


北海高等学校

電電北海道

ヤクルトアトムズ
ヤクルトスワローズ
(1971 - 1989)

監督・コーチ歴


ヤクルトスワローズ (1986 - 1989, 1993 - 2005)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2009年
選出方法競技者表彰
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若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者、野球解説者

現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスタースワローズ」。広角に打ち分ける巧みなバッティングで高打率を残し、小柄な体格ながらも通算220本塁打を放つなど、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。

2020年終了時点で、NPBで通算6,000打席以上の中で打率1位(4,000打席以上では3位、日米通算では4位)。年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。
経歴
プロ入り前

北海道留萌市で国鉄職員の長男として生まれる。父の竹四郎は、社会人野球の強豪・函館オーシャンの元選手で、アマチュア審判員の資格も持っており、国鉄でも軟式野球チームに所属していた[2]。また野球以外にもノルディックスキーで国体への出場経験があった[3]。そのため若松も幼少の頃から野球とスキーに親しみ、留萌中学校では、夏は野球部、冬はスキー部に所属し、また陸上部の助っ人としても駆り出され中距離走(800m)で大会に出場し優勝している。若松は中学時代のノルディックスキーと中距離走によって、知らず知らずのうちに下半身が鍛えられたと述べている[4]

北海高校入学時にはスキー部か野球部のどちらに入ろうか迷っていたが、野球部の猛練習を見て入部を決意した[5][6]。2年生から二塁手のレギュラーになり、チームは1964年夏の甲子園に進出するが[7]、若松は気管支炎のため欠場を余儀なくされる[8]。しかし翌1965年夏の甲子園には、背番号14ながら三番打者、右翼手として出場。1回戦で佐賀商に敗退する[7]がこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される[6]。卒業後は電電北海道に進む。北海道拓殖銀行大昭和製紙北海道など強豪が多く、チーム自体は都市対抗に出場できなかったが、補強選手として1967年から4年連続都市対抗に出場。1967年の大会では拓銀に補強され、2回戦で本塁打を打つなど中心打者として活躍し、拓銀の準々決勝進出に貢献した[9]

公称168cm(自称166cmだった[10])という小柄な体型で、プロ選手としてやっていく自信がなかったため、プロ入りには自他ともに消極的だった。しかし1970年秋に、翌シーズンからヤクルトアトムズを指揮することになった三原脩新監督の婿で、ヘッド兼打撃コーチの中西太が若松の素質に目を付け、プロ入りを勧めた。プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れ、最後には中西もスカウトに同行して、不安視していた父親と夫人を「体が小さくてもやれる」と説得したので[11]、最終的に若松も夫人に「3年の時間をくれ。3年やってダメだったら、北海道に帰ろう」と言ってプロ入りを決意した[12]
現役時代

1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。背番号は「57」。指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)[13]。若松は夫人と共に北海道から上京し、入団発表でも夫人を同伴している。

入団後は、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ねた[14]。中西のあまりの熱の入れように、三原がなぜお前はそこまで若松に入れ込むのかと尋ねると、中西は「一生懸命やってるから、最後までついて来て人一倍練習やってるし、教えないわけにはいかない」と答えたという[15]

1971年から左翼手のレギュラーに定着。112試合に出場して規定打席未満(305打席)ながら打率.303を記録した(同年のセ・リーグの3割打者は長嶋茂雄のみ)。同年オフに背番号を「1」に変更。

1972年には打率.329、リーグ2位の20盗塁という成績を残して首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。

1973年もリーグ2位の打率.313を記録する。1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。

1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率.312で3年連続で3割を残した。

1975年はプロ入り後初めて打率3割を逃すが、外野守備では自己最多の11補殺を記録した。

1976年張本勲谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。しかし若松自身は首位打者を逃した悔しさから練習量をさらに増やしたという。

1977年より中堅手にコンバートされ、同年に打率.358、20本塁打という自己最高の成績で2度目の首位打者を獲得し、ヤクルトの2位躍進の原動力となる。三振数は503打席に立ってわずか14だった。

1978年には大杉勝男チャーリー・マニエルと共にクリーンナップを組む。開幕時こそ腰痛腱鞘炎に悩まされ、5月初めの時点では打率.228と不振に陥るが、5月6日の大洋戦で3イニング連続本塁打を記録するとそこから復調した。最終的に水谷実雄と首位打者争いを繰り広げてリーグ2位の打率.341を記録するなど活躍し、チームは開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てて初優勝。若松は自身初のセ・リーグMVPに選ばれた。阪急との日本シリーズでは27打数9安打3打点を記録。第5戦では8回表に山田久志から本塁打を打って勝利に貢献し、優秀選手賞を獲得した。シリーズ第7戦までもつれた対決はヤクルトが勝利し、チームは初の日本一となった。

1979年ジョン・スコットが入団したため中堅手から再び左翼手に回る。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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