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若宮大路(わかみやおおじ)は、神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜(滑川交差点)から鶴岡八幡宮に通じる参道であり、同市の目抜き通りの一つ。 現在は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部で、鶴岡八幡宮前から相模湾の由比ヶ浜へと大路は一直線に延び、参道の延長は約1.8キロメートル(km)に及ぶ[1]。途中3つの鳥居があり、由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」という。 二の鳥居から三の鳥居までの間は、盛土によって大路中央部分は一段高く、その両側に堤を築いて石を置いた歩道になっており、これを段葛(だんかずら)という[2][3]。段葛は遠近法によって実際の距離より長く見えるように、二ノ鳥居から鶴岡八幡宮側に道幅が狭くなっている[4]。1986年(昭和61年)8月10日、「鎌倉幕府の遺跡」として旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」のひとつに選定されている[5]。 鶴岡八幡宮は年始に200万人もの初詣客でにぎわうのをはじめ、毎年9月16日の流鏑馬(やぶさめ)神事や観光行事が多く、若宮大路は行き交う多数の観光客が訪れる道である[1]。桜の名所としても有名で、沿道には土産物店などが目立つ。 治承4年(1180年)に伊豆で挙兵した源頼朝は、同年10月に父・源義朝が本拠としていた鎌倉に入り、三方を山に囲まれて南だけ海に面した防衛上有利なこの地に幕府を開き、都市造営を行った[6]。若宮大路は、寿永元年(1182年)に頼朝が京都(平安京)の朱雀大路を参考にして、鎌倉の都市計画の第一歩として、また、妻・北条政子の安産祈願のため造られたものである[1]。もともと由比ヶ浜の近くにあった鶴岡八幡宮を現在地の北山のふもとに移し、由比ヶ浜と鶴岡八幡宮とを結ぶ直線道路を造成して若宮大路と名付け、これを基軸に鎌倉の都市造営を行った[6]。頼朝自ら指揮するほど造営に熱を入れており、北条義時らの諸将にも土石を運ばせたと伝えられる[7][2]。 元来の若宮大路の幅は、数次の発掘調査の結果、鶴岡八幡宮の社頭から二の鳥居までの約500メートル(m)区間で33 m(11丈)であることがわかっている[6]。 若宮大路最大の特徴である段葛は、当初は鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居までの1300 mに渡ってつくられたが、その後の地震や津波での破壊で明治の初めには二の鳥居から南がなくなり[7]、さらに若宮大路を横断するJR横須賀線の開通で一部撤去されたことにより、現在は480 mを残すのみとなっている[2]。
概要
若宮大路の鳥居
若宮大路の鳥居
一の鳥居(2004年(平成16年)10月17日撮影)※ 画面奥が鶴岡八幡宮
二の鳥居(2004年(平成16年)10月17日撮影)※ 画面奥が鶴岡八幡宮
三の鳥居(2004年(平成16年)10月17日撮影)※ 画面奥が鶴岡八幡宮
拝殿前の大石段から見た鳥居。手前から三の鳥居、二の鳥居、一の鳥居
歴史