若大将シリーズ(わかだいしょうシリーズ)は、東宝が1961年から1971年まで製作した全17作から構成される加山雄三主演の青春映画のシリーズ名である。
社長シリーズ、駅前シリーズ、クレージー映画と共に、1960年代の東宝の屋台骨を支えた。 高度経済成長期の大学生の恋とスポーツを描いた映画である。全作品カラー、シネマスコープである(「帰ってきた若大将」のみビスタサイズ)。 このシリーズの生みの親は、プロデューサーの藤本真澄と脚本の田波靖男である。加山雄三は前年デビューし、田中友幸プロデューサーのもとで『独立愚連隊西へ』(1960年)や『暗黒街の弾痕』(1961年)で準主役を張り、着実に大物振りを発揮しだしていたが、大学を出たばかりの加山の演技はお世辞にも演技といえるものではなかった。そこで満を持して藤本は、本格的に加山雄三を売り出すことにし、戦前の松竹蒲田で清水宏監督により映画化された加山と同じ慶應義塾大学出身で慶應ではラグビー部に所属していた藤井貢主演『大学の若旦那シリーズ』を東宝で現代風にアレンジする企画を立てた。(これに先立ち、1958年、東宝は瀬木俊一
概要
沿革
シリーズ誕生
実は、『大学の若大将』の第1稿ではマンホールの蓋で焼肉を焼くというものだったが、藤本から「良識ある大学生がするもんじゃない。人が落ちたらどうするんだ」とクレームがついてしまった。だが、ギャグにこだわった田波は、公道のマンホールがダメなら大学構内の浄化槽の蓋にして、プロデューサーの意見を逆手に取り入れて管理人の片足を落すことにした。1961年7月に公開された『大学の若大将』は、加山自身を演じた等身大のヒーロー像が受けて大ヒットとなった。しかも劇場では、この浄化槽の蓋のギャグが大受けだった。さっそく藤本プロデューサーは二作目の製作を指示したが、「この次もマンホールの蓋で肉を焼くギャグを考えてくれ」と注文を付け田波をあきれさせた。こうして若大将シリーズは始まった。 第2作の『銀座の若大将』もヒットし、第3作の『日本一の若大将』で3部作のトリという内容だったが、人気は衰えず、初の海外ロケの第4作『ハワイの若大将』まで作られた。ただ、この作品の後、加山は黒澤明監督の『赤ひげ』出演のため、スケジュールを1年間拘束されることが決まっていた。そのため、スタッフは加山の1年間のブランクによる若大将シリーズの人気低迷という危機感を抱き、シリーズの打ち止めも覚悟していた。だが、反対に観客の飢餓感の方が勝り、国内ロケの『海の若大将』は前作を上回る興業成績を収めた。また、この作品で歌われた弾厚作作曲、岩谷時子作詞、森岡賢一郎編曲の「恋は紅いバラ」「君が好きだから」もレコードがヒットし、ここに至って若大将シリーズは確固たる地位を築いたのだった。続く『エレキの若大将』は加山の音楽的な才能と当時流行していたエレキブームがマッチした出色の音楽映画作品となった。また加山の代表作である「君といつまでも」も挿入歌として歌われたが、このレコードが300万枚を売り上げるトリプルミリオンセラーとなり、加山雄三ブームといえる現象も生みだした。このブームの中、二度目の海外ロケ作品である『アルプスの若大将』は、加山の得意なスキーを前面に推し、シリーズでも『大学の若大将』に次ぐ観客動員と1966年の東宝映画興行収入第1位を果たす大ヒットとなった。翌年の1967年には正月公開の『レッツゴー!若大将』、東宝35周年記念作品『南太平洋の若大将』、『ゴー!ゴー!若大将』と3本が公開されることになった。押しも押されもせぬ東宝のドル箱シリーズの面目躍如というところだった。 加山の実年齢が30歳を越えると、さすがに大学生には無理があるようになった。そのため、『リオの若大将』で若大将を卒業させて、シリーズを終わらせることにした。しかし、これだけのヒット作を終わらせるのはもったいないということで、東宝が得意とするサラリーマン喜劇へとシフトさせることになった。この際に成熟した大人の女性としての色気がどうしても出てしまうようになった星由里子から、若手成長株だった酒井和歌子をマドンナ役に抜擢し、澄子とは違った、からりとした性格の節子がヒロインとなった。この抜擢に当初酒井は、加山との年齢差や星とのあまりの違いもあり躊躇したようであるが、初々しく清新なマドンナ像となった。1969年の正月映画となった『フレッシュマン若大将』は、高度経済成長期の1960年代の花形産業であった自動車メーカー・日東自動車のサラリーマンとなった若大将・加山と、大学を中退して縁故で副社長になった田中邦衛の青大将の絶妙なコンビぶりもあって、前作『リオの若大将』を上回る観客動員、興行収入となるヒット作になった。続けて同年7月に公開した『フレッシュマン若大将』の続編的な『ニュージーランドの若大将』は、同じく日東自動車のサラリーマンで、半年後の公開作であったが、加山の実年齢に近づけるため、2年間の海外赴任をしていたという設定であった。両作ともアクション映画を得意とした福田純のテンポある演出の軽快な作品となり、若大将シリーズ社会人編は無難な船出をすることができた。『リオの若大将』から『ニュージーランドの若大将』まで藤本を補佐する形でプロデューサーとなった大森幹彦によれば、企画としては『ニュージーランドの若大将』が先にあったが、急遽、北海道ロケ篇を作ることになったため2作が繋がったかたちになったという[1]。^ プロデューサー対談 大森幹彦×安武龍(『若大将グラフィティ』角川書店、1995年12月) 1970年代に入って最初の『ブラボー!若大将』はこれまでとは趣きが違った作品となっていた。それは社会人篇で消えていたスポーツ競技が復活することになるが、大学篇時代とは違ってスポーツ万能の若大将ではなくなっていたのである。実業団テニスの決勝では辛勝する上、恋人にふられたあげく、会社の上司と衝突して会社を辞めてしまう。失意の中でグアムへと旅立ってしまうのだった。高度経済成長の翳りが作品に反映したのか、空元気の明るさで、最後のどんでん返しの復権も痛快さが感じられなかった。そして次作の『俺の空だぜ!若大将』では、青大将が専務を務める東海建設の平社員で、命令を受ける立場という不自由さが若大将を覆っていた。東宝サイドも加山若大将に見切りをつけ、ヒットシリーズを続けるために次世代へバトンタッチさせようと、大矢茂を二代目に指名した。そして1971年の『若大将対青大将』で、田沼雄一の実家である田能久の人々は登場せず、大矢若大将へとバトンタッチするのだったが、東宝のドル箱であったシリーズの一作としては惨憺たる結果となった。配給収入は7970万円強と1億円を割り込み、観客動員数も45万人と『アルプスの若大将』の(単独での動員数の)5分の1以下[1]、『ブラボー!若大将』の半分にも満たない成績では、一旦打ち止めとするしかなかったのである。 その後、1975年頃に突如としてオールナイト興行が若い世代に人気となったのをきっかけに、若大将シリーズは一時低迷していた加山と共に再びブームとなり、草刈正雄主演による新作も2本作られたが、シリーズ化までには至らなかった。そんな折の1981年、加山雄三芸能生活20周年記念作品として『帰ってきた若大将』が制作された。おばあちゃん役の飯田蝶子はすでに亡くなっていたが、賀原夏子が加わり、草刈若大将でのマドンナ役だった坂口良子が今度は加山若大将のマドンナとなった。全篇が若大将シリーズのオマージュに溢れたこの作品は、配収10億円の大ヒットとなって、有終の美を飾った。 各作品の主要登場人物などの基本的な設定は共通しているが、シリーズとしては例えば松竹の『男はつらいよ』シリーズなどとは異なり、ストーリーのつながりはない。このため、このシリーズは一種のパラレルワールドを描いているともいえる。
スケールアップ
社会人編
シリーズの終了と復活
シリーズ共通の設定
登場人物
レギュラー
田沼雄一(加山雄三)
初代若大将こと田沼雄一は明治時代から続く老舗のすき焼き屋「田能久」(たのきゅう)の息子で、大学の運動部(競技は作品によって異なる)のエースである。この役名は「田能久」の屋号をヒントに田沼姓が浮かび、これに加山雄三の「雄」をとって命名された。
大食漢で頼まれたらイヤとはいえない気のいい性格である。母親は早世し父・久太郎、妹・照子、祖母・りきと暮らしている。
好物は肉まんである。
劇中、水泳、ボクシング、マラソン、スキー、柔道、駅伝など当時の人気スポーツのほか、ヨット、サッカー、アメリカンフットボール、フェンシングなど当時マイナーだったスポーツにも挑戦している。
当時大人気だった野球が演じられていないのは加山自身が野球音痴だったからだとも、当時ライバル企業の東映・大映が球団を持っていた(フライヤーズとオリオンズ。のちの日本ハムとロッテ)[注 1]ことで藤本真澄プロデューサーが野球をテーマにすることに消極的だったからだとも言われている。
石山新次郎(田中邦衛)
青大将こと石山新次郎は若大将の同級生であり、シリーズ全般におけるコミックリリーフ的ポジションのキャラクター。大企業の社長の息子でいつも若大将に対抗意識を抱いている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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