若井ぼん・はやと
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若井ぼん・はやと
メンバー若井ぼん
若井はやと
結成年
1962年
解散年1985年
事務所松竹芸能
活動時期1962年 - 1985年
師匠若井はんじ・けんじ
出会い高校の同級生
現在の活動状況解散
芸種漫才
受賞歴
#受賞歴参照
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若井 ぼん・はやと(わかい ぼん・はやと)は、若井 ぼん(わかい ぼん)と若井 はやと(わかい はやと)からなる、日本の昭和後期に上方で活動した漫才コンビ。

若井はんじ・けんじ門下。コンビ結成から解消までの所属事務所は松竹芸能。若手の頃、横山やすし・西川きよしとしのぎを削った。
メンバー

若井 ぼん(わかい ぼん、
1944年9月27日 - )本名:阿部 龍弥。大阪市南区出身。生来の目立ちたがり屋で、朝日放送ラジオお笑い街頭録音』などの視聴者参加番組に積極的に応募し、出演料や景品を生活費の足しにしていた。中学2年生のときに、破格の賞金で知られた素人漫才番組『漫才教室』(朝日放送ラジオ)に同級生と初出演。その後、相方をはやとに替え、プロを目指すため高校を中退。はやととともに若井はんじ・けんじに入門。当初名付けられた芸名は「若井ぼーと」であったが、新聞に間違えて「若井ぼん・はやと」と書かれたのを、そのまま用いた。後付けの由来として「ぼんくら」とか「ぼんぼん」などを公言していた。気分転換のため旅行したジャマイカ河内音頭を披露したところ好評を受け、レゲエと河内音頭を融合したライブパフォーマンスを創案。「ジェームス・ボン(James Bong)」名義でレコードをリリースした(後述)ほか、1984年および1986年には音楽フェスティバル「レゲエ・サンスプラッシュ(英語版)」にも出演した[1][2]。はやととのコンビ解消後、レオナルド熊に触発され東京の石井光三オフィス所属となり(4年ほど所属)、1989年にミュージカル出演で知り合ったミッサンと「若井ぼん&ミッサン[1]」を結成し、自身の妻(元客室乗務員)を加えて3人でダンス・踊り・楽器演奏をまじえたライブイベントを定期的に行なった[3]。この頃の芸「ミュージカルコント」は、野球拳をして負けたぼんが女性用の下着姿になるというオチのものだった(必ずぼんが負けるようになっていた)。1998年頃、再婚。「若井ぼん&ミッサン」を1999年に解散したのち、「若井ぼん・ねっと」を経て、ピン芸人・レゲエ漫談家として活動するかたわら、大阪市住吉区カラオケ店を経営している。兄は世界貿易センタービルで旅行会社を経営し、皇太子夫妻にハーレムを案内した。

若井 はやと(わかい はやと、1944年8月14日 - 2008年12月8日[4])本名:中川 秀明[4]。大阪市南区出身。生家は貧しく、ぼんによると、「戦争もとっくに終わっていたのに防空壕のようなところに家族で住んでいた」「家財道具も一切なく空の缶詰が鍋茶碗がわりだった」という。生活のため、ぼんとともに前述の番組『漫才教室』へ参加し、賞金を稼いだ。高校中退後、ぼんとともに若井はんじ・けんじに入門。ぼんとのコンビ解消後、演芸の浪花座を拠点に漫談をおこなった[5]ほか、ラジオパーソナリティタレント俳優CM出演など多方面に活動し、多くの弟子を育てた。亡くなる2年ほど前より喉頭がんを患い療養していたが、2008年12月8日[4]心不全のため死去[5]。芸人の親指ぎゅー太郎は息子。

コンビ略歴・芸風

ぼんとはやとは高校の同級生だった。ぼんがはやとを誘い、「阿部・中川[6]」としてラジオ番組『漫才教室』の常連となった。2年生のとき、はやとが高校に学費を払えなくなったことをきっかけに、2人で高校中退。漫才作家の足立克己の紹介で松竹芸能入りし、同事務所の若井はんじ・けんじに弟子入り。1962年[1][4]新世界新花月にてデビュー。

コンビ名候補に「茶チルプリン」もあったという。

主に道頓堀角座など、松竹芸能の劇場で活躍し、キャリアを積んでいくも、ホームグラウンドだった角座閉鎖(1984年)により活躍の場が失われ[5]、1985年に解散[4]

ぼんの「しっつれいしました[4][5]」などのギャグや、出っ歯を売りにしたハーモニカの芸が人気を博した。


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