若乃花幹士_(2代)
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若乃花 幹士

国技館辺に展示されている若乃花幹士の手形
基礎情報
四股名下山 勝則→朝ノ花 勝則→若三杉 幹士→若三杉 壽人→若乃花 幹士
本名下山 勝則
愛称カンボ、美剣士[1][2][3]、五月人形[2]
生年月日 (1953-04-03) 1953年4月3日[1]
没年月日 (2022-07-16) 2022年7月16日(69歳没)
出身青森県南津軽郡大鰐町[1]
身長186cm
体重133kg
BMI38.44
所属部屋二子山部屋
得意技左四つ、上手投げ、外掛け[1]
成績
現在の番付引退
最高位第56代横綱
生涯戦歴656勝323敗85休(88場所)
幕内戦歴512勝234敗70休(55場所)
優勝幕内最高優勝4回
殊勲賞2回
技能賞4回
データ
初土俵1968年7月場所[1]
入幕1973年11月場所[1]
引退1983年1月場所[1]
引退後 年寄・間垣
備考
金星3個(北の湖3個)
2019年7月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

2代目 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、1953年4月3日 - 2022年7月16日)は、青森県南津軽郡大鰐町出身で二子山部屋に所属した大相撲力士、第56代横綱。本名は下山 勝則(しもやま かつのり)。引退後は年寄・間垣

大関時代までの四股名は「若三杉」だったが、横綱昇進を機に師匠の四股名「若乃花」を継承した(大関まで名乗った若三杉も当時部屋付き年寄だった11代荒磯の元関脇若三杉彰晃の四股名を継承したものである)。一般には「若三杉」の四股名で認知されている。身長186cm、体重133kg。血液型はA型。現役時代の愛称は下の名前の勝則から「カンボ」と呼ばれていた。師匠であった初代若乃花の娘婿となったが、後に離婚。
来歴
入門

小学校二年から青森県下の相撲大会に出場、大鰐地区の小学生相撲大会で4年連続優勝、中学2年の夏休みの作文には「将来は横綱か大関になりたい」と書いた[4]。活躍の評判を聞いた同郷の元横綱・初代若乃花の二子山親方に見出され[5]浪岡町出身の高谷(のちの第59代横綱・隆の里)と同じ夜行列車ゆうづる」で上京、二子山部屋に入門した[1][6]1968年7月場所初土俵。「朝ノ花」[注 1]と名乗っていた幕下時代から北の湖とならぶホープとして期待されたが、当時は土俵際で無理に残すことが多いためしばしばケガをしてやや出世が遅れた。とはいえ若三杉と改めて半年後の1973年7月場所に20歳で新十両、十両は2場所で突破して同年11月場所に新入幕、翌1974年11月場所には新小結で11勝4敗という好成績を挙げ、一気に大関候補と呼ばれるまでになる。幕内昇進後の二子山部屋座談会では遅食いではあるが丼飯を6杯から7杯食べることを若獅子や貴ノ花から暴露されており、健啖家であったことも力士として成功した要因の1つと言える[7]

一時期肝炎を患って伸び悩んだものの、1977年1月場所には関脇で3場所連続の11勝4敗の成績を挙げ、場所後に大関に昇進した[1]。大関時代は柔らかい足腰、切れ味鋭い投げ技で、北の湖・輪島全盛期のなかで活躍。実力と共に人気も急上昇してCMにも多数出演し、テイチクレコードからはドクター南雲とシルバーヘッドホーン(歌)とDJウルフマン・ベティー(合いの手)による応援歌「ソウル若三杉」がリリースされ、また若三杉自身もローオンレコードから「泣きぼくろ」で歌手デビューもした。大関2場所目となる1977年5月場所には13勝2敗で初優勝し、以後横綱昇進を期待される。

甘いマスクで人気があり[1]蔵間と女性ファンの人気を二分しており、ことに水商売の女性の受けが良かった。NHK相撲解説者の玉ノ海梅吉も大関昇進を狙っていた時期の若乃花を見て「かわいい顔しているじゃないですか」とその容姿を気に入っているかのような発言を度々行っていた。一方で「ジョッパリ(強情っ張り)の代表選手」[8]とも言われ、顔に似合わない負けん気の強さが持ち味でもあった。
横綱昇進

1978年1月場所は13勝で準優勝、3月場所・5月場所は2場所連続で優勝同点(優勝決定戦の相手はいずれも北の湖)とし、5月場所後の横綱審議委員会では、他の横綱昇進の事例と比較して遜色ないとの理由付けにより満場一致で「異議なし」[4]として横綱推薦が決まった。綱取り直前3場所通算の成績は40勝5敗であり、これは大乃国がタイ記録に並ぶまで単独の最高記録であった(現在は貴乃花の41勝が最高記録であり、若乃花は大乃国と共に2位タイ)。一方で、直前3場所内に優勝がないのは柏戸以来で、「前例のない推薦」[4][注 2]とされた。横審委員からは土俵態度等を念頭に「精神面での充実」「模範になる行動を」[4]との注文がついた。

横綱昇進伝達式での口上は、「謹んでお受けします。心技体の充実につとめ、立派な横綱になるよう精進致します」であった[9]横綱土俵入りの型は師匠と同じ雲竜型で、指導は二子山と輪島が行い、二子山は「新横綱でないみたいだなあ。輪島よりずっとうまいや」と言って周囲を笑わせた[10]明治神宮での新横綱奉納土俵入りでは同期の隆の里が露払い、兄弟子の大関・貴ノ花太刀持ちを務めた[11]。貴ノ花ファンからは「かわいそうだからやらせないで!」という声が上がったが、師匠の二子山は貴ノ花に奮起を促すのと同時に、ファンサービスのために、あえて弟弟子の太刀持ちを命じたと言われる。

横綱昇進とともに師匠の現役名である若乃花幹士を襲名することになった。若三杉本人は横審の結果を受けた記者会見で「横綱としての自信がつけば、オヤジのシコ名を継ぎたい」[4]と述べたが、二子山は部屋創設当時から自分の弟子で最初の横綱に名前を継がせると公言していたことを若三杉本人は全く知らず、決定後に聞いて「えっ、若乃花だって!?」と驚いていた。一説によれば本人は若三杉の四股名を大変気に入っており改名したくなかったとも言われる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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