苗木遠山氏
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}藤原氏 > 加藤氏 > 遠山氏 > 苗木遠山氏

苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。

鎌倉時代の初期に遠山景朝の長男の遠山景村美濃国恵那郡木曽川以北に進出したのが始まりで版籍奉還まで、ほぼ同じ地域(恵那郡の木曽川以北と加茂郡東部)を支配した数少ない武家である。

植苗木の広恵寺城、後に高森の苗木城を本拠地とした。江戸幕府が成立すると譜代大名苗木藩主となり、明治2年(1869年版籍奉還後には知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県後は華族となり東京の華族邸へ移住。明治17年(1884年)7月7日、華族授爵ノ詔勅により、子爵となった。
歴史

文治元年(1185年)に鎌倉幕府御家人加藤景廉遠山荘地頭となり、子の遠山景朝は地名をとって遠山氏に改姓し初代となった。

その後、遠山氏は、本家の岩村遠山氏以外にも恵那郡各地に分家し、居城ごとに分かれて「遠山七頭」(岩村・苗木・明知串原明照安木飯羽間)と呼ばれた。

仁治2年(1241年)、遠山氏初代の遠山景朝の子の遠山景村が、遠山荘の木曽川以北の所領を所領とするために、木曽川南岸の西山戸から北岸の那木に進出。

13世紀後半、岩村遠山氏の遠山景光の次男の遠山光高が苗木遠山氏の当主となる。[1]

元弘年間(1331年?1334年)遠山一雲入道・遠山景長親子が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く[2]

元弘?建武年間(1334年?1336年)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築き宗良親王を迎える[3]

正平5年(1350年)遠山景信が、植苗木に廣恵寺を開基。[1]

正平15年(1360年)美濃守護の土岐頼康仁木義長と土岐東池田氏を攻めた際に広恵寺城主の遠山景信も従ったが正平16年(1361年)12月8日に京都で仁木義長と戦った際に土岐氏の長山頼基に討たれた[4]

応永10年(1403年)遠山景直が、長山頼基の子の長山光景を養子に取り後継とした。

応永24年(1417年)苗木郷室住村の遠山正景が遠山氏再興祈念に、大般若経600巻を十二所権現(後に坂下村の西方寺)に奉納。[1]

文明5年(1473年)10月、足利義政の命によりと木曽谷から木曾家豊伊那谷から小笠原家長が東濃に侵攻した[5]。その後数十年間、苗木遠山氏は木曾氏と小笠原氏の傘下に置かれた。

永正7年(1510年)8月21日、遠山景正が所領の争いにより飛騨国にて姉小路済継と戦い流矢により討死した。

大永4年(1524年)3月に小笠原定基の代官高柴景長が、苗木城下の神明神社の造営を行う。

大永6年(1526年)に遠山昌利(一雲入道)が植苗木から高森山に館を移す[6]

天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れ遠山氏は大部分の旧領を回復したものの、下条時氏に恵那郡の落合村と湯舟澤村を占領された。

天文8年(1539年)6月27日に遠山昌利の妻が70歳で亡くなり、7月1日に葬儀が行われ大圓寺明叔慶浚が導師をつとめた。

天文21年(1552年)岩村遠山氏から苗木遠山氏へ養子に入っていた遠山武景が京都見物から帰る際に近江から鈴鹿山脈を越えて伊勢湾尾張へ渡る舟に乗船中に盗賊の船に襲われて殺害されたため、弟の遠山直廉が苗木遠山氏を嗣ぐこととなり、高森山砦を拡張し苗木城主となり、恵那郡北部と加茂郡東部を領有した。

天文年間(1532年?1555年)に遠山正廉(直廉同一人物説有り)が高森山の館を拡張し苗木城を築く[7]

天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏の傘下に入ったため、同時期に苗木遠山氏も武田氏の傘下に入ったとみられる。

永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(遠山直廉同一人物説有り)が織田氏との誼で桶狭間の戦いに出陣する[8]

苗木勘太郎は尾張国を統一した織田信長の妹(苗木勘太郎室)を娶った。

永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘の龍勝院が織田信長の養女となった後に武田勝頼(武田信玄の四男)に嫁ぐ[9]

永禄10年11月1日(1567年)12月11日、苗木勘太郎の娘の龍勝院が武田氏最後の当主武田信勝を出産する。

永禄11年(1568年)遠山直廉が武田信玄からの命により駿河侵攻に参加した。

永禄12年(1569年)信玄より三木自綱の弟で、武田氏から離反した三木次郎右衛門尉を攻めるように命じられ飛騨国益田郡に侵攻し大威徳寺の戦いにて大威徳寺を焼いたが矢傷を受けて苗木城に戻った。また同年廣恵寺からの求めに応じて禁制を下している[10]

永禄12年(1569年)6月に菩提寺の廣恵寺からの求めに応じて下した禁制の内容は以下のとおりである。

一、山林竹木伐取り、牛馬放し飼い不可の事

一、寺方に背く悪僧、当役為る者成敗有る可く、万一腕力及ばすは此方へ申し付く可き事

一、寺家門前は諸役以下一切免除の事

右旨、違背の輩に於いては、罪科に処す可き者也、件の如し

永禄拾二己巳稔六月 日 直廉

高札 広恵寺禁制 中津川市史〔史料編25〕(永禄12年)遠山氏所蔵


永禄12年(1569年)6月18日に、三木氏との戦で受けた矢傷がもとで、苗木城で没した。

直廉には男子がなく苗木遠山氏は再び断絶したので、信長は飯羽間遠山氏遠山友勝を苗木城主にして嗣がせた[11]

元亀元年(1570年)12月28日、上村合戦にて遠山友勝(苗木勘太郎)・明知遠山景行・串原右馬介経景・小里内記らが、武田家臣の秋山虎繁と戦い敗れる[12]

元亀2年9月12日(1571年9月30日)の比叡山焼き討ちにおいて遠山友忠織田信長に従い参戦した。『信長公記』では苗木久兵衛の名で登場するが、『遠山譜』では明照遠山久兵衛として記載されている。

元亀3年(1572年)10月3日、武田氏が岩村遠山氏岩村城を包囲し開城させる(岩村城の戦い)。その後遠山氏の領内の寺院を悉く焼討した。

元亀4年(天正元年)(1573年)8月、遠山友忠が木曾を攻めようとしたが、川上平左衛門が夜陰に紛れて苗木遠山勢を攻めて首級62を獲た[13]木曾義昌は河折籠屋を攻め落とし、苗木を攻めた[14]。この功により川上平左衛門は、木曾義康より感状と坂下村500貫を与えられた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef