苗曽
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苗 曽(びょう そ、? - 24年)は、中国代の武将、政治家。更始帝配下の人物だが、出身母体等は不明である。
事跡

姓名苗曽
時代

生没年生年不詳 - 24年更始2年)
字・別号〔不詳〕
本貫・出身地等〔不詳〕
職官幽州牧〔更始〕 
爵位・号等-
陣営・所属等更始帝
家族・一族〔不詳〕

河北の王郎更始2年(24年)5月に劉秀(後の光武帝)らにより平定された後、長安に在った更始帝とその配下たちは、劉秀の威勢が高まるのを見てこれを恐れた。そこで劉秀を蕭王に封じて、兵権を奪い、功績ある諸将を長安に呼び戻そうとする一方で、苗曽を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守[1]に任命して、これらを派遣した。しかし劉秀は、耿?の進言等もあり、この召還に応じようとしなかった。 

劉秀は、銅馬など河北の民軍を平定しようと幽州10郡の軍の動員を望んだため、ケ禹の推薦により呉漢に符節を持たせて派遣した。苗曽はこれを聞くと、幽州の各郡に裏から手を回し、動員に応じないようにさせた。まもなく呉漢がわずか20騎で無終(右北平郡)に到着すると、苗曽は呉漢に備えが無いと見て、路上でこれを出迎えた。ところが、呉漢は直ちに騎兵たちを率い、苗曽を捕えてこれを斬り捨て、その軍を奪い取った。なお、韋順、蔡充も耿?の手で誅殺されている。幽州の各郡は苗曽らの死に震撼し、尽く呉漢に降って動員に応じた。

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^ この当時、上谷太守は耿況、漁陽太守は彭寵が、すでにその任にあった。

参考文献

後漢書』列伝8呉漢伝

同本紀1上光武帝紀上

同列伝9耿?伝

同列伝12景丹伝



更新日時:2018年4月21日(土)07:55
取得日時:2019/01/30 16:40


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