この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2023年3月)
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}人名 > (ファミリーネーム) > 姓 > 名字(苗字)
名字または苗字(みょうじ、英語: surname)は、日本の家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏(民法750条、790条など)[注 1]、通俗的には姓(せい)ともいう。 世界的にはイギリスやドイツのように移民が集まる国では名字の数が多くなり、世界中の名字が集まる状態であるが[1]、中国や韓国では一文字姓が原則とされているので種類が少なく、特に韓国では約280種類しかない[1]。 日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}再び「名字」と書くのが一般になった[要出典]。以下の文では表記を統一するため固有名、法令名、書籍名を除き「名字」と記載する。 「名字」と「姓」又は「氏」はかつては異なるものであった。たとえば清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が「名字」、「次郎三郎」が「通称」、「源」が「氏(うじ)」ないし「姓(本姓)」、「朝臣」が「姓(カバネ)」(古代に存在した家の家格)、「家康」が「諱(いみな)」(本名、実名)となる。 日本での名字の数は、たとえば「斎藤」と「斉藤」を別としてカウントし、「河野」を「こうの」と「かわの」で区別して別にカウントするなどという方法をとれば、一説には20万種にも達するなどとも言われるが[1]、20万種は多すぎる、実際には10万種ほどだろう、という見解を示す意見もあり、正確な推定は難しい[1]。しかし世界的に見れば多いほうであることは事実である。これほど名字が増えた要因として、日本人は他国・他地域と比べて「同族」という意識よりも「家」の意識を重要視し、同族であってもあえて名字を変えて「家」を明確にしたり、地名を用いて「家」を明らかにしたからと考えられる。また明治新政府が、国民に名字を持つことを義務付け、その結果庶民はそれまでもともと通称としていた名字を正式に名乗り出した例の他に、新たな名字を名乗った例もあり、明治時代に一気に名字の数が増えた、という意見がある[1]。一説によると、幕末期と明治期を比べると、一気に数倍に増えたという[1]。 日本人の名字の由来は、様々な分類法があるが、次のように分類することもできる[1]。 古代の氏族制度が律令制へ移行した後に、氏族格式そのものよりもその本人が属する家系や家格の方が重要になり、従来の氏の中でもその家を区別する必要が現れた。たとえば、同じ藤原氏でも藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家の藤原北家の中でも道長・頼通流とそれ以外といった様に同じ氏の中でも格の違いが現れている。 そのため、その家を現すためにその出身地を付けたのが名字の始まりと言われている。平安時代の貴族は母親の邸宅で育つため、その母方の邸宅のある地名などを名字につけた。貴族の初期の名字は一代限りのもので、号といい家名を現すものではなかったが、平安時代後期から妻取婚へと大きく変わり、父子別々だった称号が父から子へ孫へと代々受け継がれ、その家系を示す様になり家名となった(近衛家、九条家、西園寺家など)。この家名が武家社会以降の公家の名字となり、明治維新以降も受け継がれることとなる。 平安時代後期になると律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現する。武士は自らの支配している土地の所有権を主張するために自分の所有する土地(本貫地)(名 - みょう)の地名を名字として名乗り、それを代々継承した。また荘官であれば荘園の名称を、郡司であれば郡の名称を名字とする者も現れた。 鎌倉時代になると武士の所領が拡大し、大きな武家になると全国各地に複数の所領を持つようになった。鎌倉時代の武家は分割相続が多かったため、庶子が本家以外の所領を相続すれば、その相続した所領を名字として名乗るようになる。またさらなる土地の開墾によって居住域が増え、新たな開墾地の地名を名字とし、ますます武士が名乗る名字の数は増大していった。ただし、注意すべきは、名字は異なろうとも姓(本姓)は同じということである。 例えば、新田義貞の弟は脇屋義助だが、姓(本姓)で言えばどちらも源姓であり、源義貞、源義助である。
概説
日本の名字
地名に由来[1]
渡辺、高橋、佐々木、石川、長谷川、三浦、千葉など[1]
地形・風景に由来[1]
山本、山田、森、池田など[1]
方位・位置関係に由来[1]
東、西、北、南、喜多、辰巳、乾など[1]
職業に由来[1]
服部、鍛冶、庄司、東海林、犬飼
藤原氏に由来[1](ただしその多くは藤原氏と血縁的関係にないと考えられる[2])
佐藤、伊藤、安藤、加藤など[1]
明治時代以前の名字
公家の名字
武士の名字
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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