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出典検索?: "苅谷俊介"
かりや しゅんすけ
苅谷 俊介
本名苅谷 俊彦 (かりや としひこ)
生年月日 (1946-11-26) 1946年11月26日(77歳)
出生地 日本 大分県速見郡日出町
身長178cm
血液型A型
職業俳優・アマチュア考古学者
ジャンルテレビドラマ・映画
活動期間1970年 -
公式サイト ⇒苅谷俊介 公式サイト
主な作品
映画
『影狩り』
『けんか空手シリーズ』
『里見八犬伝』
『もっともあぶない刑事』テレビドラマ
『大都会 PARTII』
『大都会 PARTIII』
『西部警察 (PART1)』
『あぐり』
『柳生十兵衛七番勝負』シリーズ
『おんな城主 直虎』
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苅谷 俊介(かりや しゅんすけ、1946年11月26日[1][2] - )は、日本の俳優・アマチュア考古学者。日本考古学協会会員。本名は苅谷 俊彦[1](かりや としひこ)。
大分県[1][3]日出町出身[4]。大分県立大分工業高等学校卒業。石原プロモーション[1]、青山芸術企画に所属していた[5]。
身長は178cm、血液型はA型[2]。 高校卒業後、家庭の事情で大学進学を諦めて上京して就職。働きながら俳優になろうと東宝芸能学校演技科に入学して、1968年3月に卒業[3][6]。1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督を経て、1971年に渡哲也主演の松竹映画『さらば掟』で映画俳優デビュー[6]。 東宝や東映の千葉真一主演映画で脇役として出演した後、1974年に石原プロモーションに入社[6]。その後はテレビドラマ『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズなどにレギュラー出演した。 趣味の考古学研究との両立のため、1982年に石原プロを退社(詳細は後述)[3]。俳優業の傍ら考古学の研究を続け、1985年1月には個人事務所の株式会社土舞台を設立[6]。1991年頃よりは約100人の考古学愛好家を集めて勉強会「考古見聞会」を主宰し[3][7]、2000年4月には日本考古学協会会員となった[6]。 2003年頃より神奈川県秦野市に在住している[8]。2009年に故郷の日出町から「ふるさと親善大使」を委嘱された[4]。隣接する別府市からは「ONSENツーリズム別府特別観光大使」に委嘱されている[9]。 高校2年生のとき、学校をさぼるために学校の近所の発掘現場に通ったことがきっかけで考古学に興味を持つ[8]。俳優となり考古学からは一時遠ざかっていたが、1980年に石原プロの社長だった石原裕次郎の新居建設現場から多数の土器を含む遺跡が出土したことを契機に、再び考古学への情熱が再燃。石原プロの副社長(当時)の渡哲也に事情を説明して所属していた石原プロを1982年に円満退社した[3]。「考古学研究のため」とはどうしても言えなかったため、表向きの名目はあくまで「独立して俳優をやりたい」ということであった。 その後、俳優活動の傍ら考古学の研究を続けており、2011年までに発掘に関わった遺跡は、全国で30か所以上にのぼり、古代史に関する一般向けの著書を出版。論文も発表している[3]。邪馬台国の有力候補地である纒向遺跡の調査・研究は1984年頃からしており、2009年の発掘調査の際にはマネージャーには仕事を取らないよう命じて連日発掘調査を手伝った[10][11]。京都橘大学客員教授も務める。 共演した舘ひろしとは公私共に懇意な間柄であり、石原プロを退社する苅谷に対し、「当面食べていくための金が要るだろうから」という理由から、舘が知り合いのレコード会社に頼んで苅谷を「倭(やまと)しうるわし」というタイトルの曲で歌手デビューさせ、その印税で生活出来るように取り計らったというエピソードが、苅谷の著書『土と役者と考古学』の中で語られている。 教育熱心なことでも知られ、娘との入浴中に『万葉集』を覚えさせていたという。これは「男と女の違いを教えるため」という独自の理論に基づく教育論であったという。田舎暮らしをしながら、考古学の研究(日本考古学協会に入会している)や畑仕事をしつつ、俳優業をこなしている。
来歴
人物
出演
テレビドラマ
コメットさん 第42話「アヒルの行進曲」(1968年 TBS / 国際放映)
水滸伝 第2話「蒼州の熱風」(1973年、NTV / 国際放映) - 県軍隊長
太陽にほえろ!(NTV / 東宝)
第111話「ジーパン・シンコその愛と死」(1974年) - 竜神会組員