芹沢鴨
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芹沢 鴨(せりざわ かも、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:芹澤 鴨、生年不明 - 文久3年9月16日1863年10月28日〉)は、幕末水戸藩浪士、壬生浪士新選組)の初代筆頭局長(頭取)。芹沢鴨は変名で、かつては下村 嗣次(継次、嗣司、嗣治とも)と名乗っていたものと推定されている。は光幹で、本姓桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない(後述)。
生涯
出自の謎

鴨の前半生については不明なことが多い。

常陸国多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の実子で、松井村の出生と言われる[1][2]。石河幹修(明善)『石河明善日記』に「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり下村嗣次は下村祐(次郎八)と親子関係であるとされている[1]。嗣次には常親という子供がいたと言われるが、下村家位牌には祐の子供と記されていた[3]。婿養子とする説もあるが根拠は見つかっていない。

島田魁の『英名録』の末尾には鴨の名前の右横に「又左(右)衛門子」とあり、水戸藩士の芹沢分家出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人[4]芹沢又衛門以幹の子だとする説も存在している[5]。同家は以幹の次男で、後を継いだ芹沢平蔵義幹(前名は鴨と同じ光幹)の子供たちである又衛門孝幹、助次郎豪幹、亀三郎らの三名が、文久3年(1863年)3月、伊藤俊輔に伴われて上京していた[6]

永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」[7]、「芹沢村浪人」[8]という表現から、室町時代に行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、江戸時代初期には戦功により徳川家康の命によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石を与えられ[9]、後に水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家本家の出身で、芹沢外記貞幹の三男とする説がある[10]

しかし近年、芹沢外記の四男に文政7年(1824年)[11]もしくは文政9年(1826年)[12]出生で、新徴組に入り、後に天狗党に加わって元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七(諱は健久)の存在が確認された[11]。鴨の生年は天保3年(1832年)とする説が有力であり、外記の三男だとすれば計算が合わない。系譜・宗門人別帳などの表記の仕方から長谷川庄七が芹沢貞幹の三男だとする説もある[13]

また、芹沢本家菩提寺の法眼寺過去帳に妻の名前が記された芹沢兵太がいる[14]。兵太は外記の次男芹沢兵部成幹没後の慶応4年(1868年)時に芹沢家に所属していた[15]人物であり、文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれた外記の三男とも言われている[14]

戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる(諸説あり)。
玉造勢

下村嗣次は安政5年(1858年)より始まる戊午の密勅返納阻止運動に参加し、万延元年(1860年)頃、玉造勢に入ったと考えられる。玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜攘夷を決行するため、豪商を周り、資金集めに奔走した。新見錦の前名とする説もある新家粂太郎が仲間にいた[16]。玉造勢は「無二無三日本魂」「進思尽忠」と大書した幟を掲げて調練を行っていた[17]。嗣次は佐原村(現千葉県香取市佐原)で押し借りを行い、名主伊能権之丞を鉄扇で殴打した[18]

しかし、常総間の水戸藩領や天領に於いて強引な手法を使って資金の取り立てを行ったことにより、代官の佐々木道太郎から幕府に上申が行われ[17]徳川慶篤武田耕雲斎を江戸に呼び寄せて、在府の家臣と議論を行った結果、文久元年(1861年)2月9日、不法の者どもを召し捕らえ、場合によっては切り捨てても構わないという指令が下された[17]。これを受けて、玉造勢の主要メンバーであった大津彦五郎らは玉造を退去して、宝幢院(現東茨城郡城里町)に移り、自訴を行うが、評定所に拘引され[19]、後に細谷に新設された牢屋に移された[20]。同時に下村、新家らにも捕縛令が下った[21]

同年3月28日、遊女いろ八(色橋)と芹沢外記邸にいたところを捕縛され[22]、同日夜、赤沼獄に嗣次は入牢した[23]。6月24日、水戸藩は激派よりの武田らの政務参与を辞めさせ、謹慎を命じ、厳罰派を家老に復帰させたことから[24]、翌文久2年(1862年)9月16日に「引廻之上斬罪之所御大赦に付於牢屋斬罪梟首之事」との処分を受けたことが判明している[25]。口述書を聞き取った一人に吉成勇太郎がいた[25]

11月21日、武田らが執政に復帰し、厳罰派が退けられた[26]後、12月26日には慶篤から戊午の密勅を受納する旨を藩中一等に伝え、政治犯の釈放が行われた[27]

それでも甚だしい所業を省みて、なお水戸藩は下村らの釈放を躊躇していたが、翌文久3年(1863年)1月初旬には新家、同じく玉造勢の兜惣介らとともに嗣次は出獄することを許された[28]

芹沢鴨と同一人物であれば、これ以後に名を改めたものと考えられる。近藤勇は「水府脱藩士下村嗣司事改芹沢鴨と申仁」と述べている[29]
壬生浪士頭取

約1か月後の2月5日、清河八郎の言論活動や、松平忠敏の周旋により幕府が組織した浪士組に新見錦・平山五郎野口健司平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。その際に江戸の剣術道場試衛館近藤勇土方歳三沖田総司山南敬助らも加わり、京都まで行動をともにする。なお、この上洛旅程の本庄宿で、近藤らの手違いにより芹沢の宿所が手配されていなかったことに腹を立て、街中で危険な大かがり火を焚いたという逸話(永倉新八の『新選組顛末記』より)が伝わるが、地元に記録も伝承も無いため信憑性は薄いとされる[30]

23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。このときに残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄根岸友山らも合流する。

3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この前後より「壬生浪士」と呼ばれ始めた。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。

25日、会津藩士本多四郎・小野八助・望月新平・諏訪伝三郎・佐久間悌二は吉田源次郎の案内で壬生を訪れ、芹沢らと初めて面会を果たした[31]


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