芹沢博文
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芹沢博文

芹澤博文

 芹沢博文 九段
名前芹沢博文
生年月日 (1936-10-23)
1936年10月23日
没年月日 (1987-12-09) 1987年12月9日(51歳没)
プロ入り年月日1955年4月1日(18歳)
棋士番号68
出身地静岡県沼津市
師匠高柳敏夫名誉九段
弟子佐藤義則
段位九段
棋士DB芹沢博文
戦績
一般棋戦優勝回数1回
通算成績455勝512敗(.470)
順位戦最高クラスA級(2期)

2017年8月24日現在
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芹沢 博文(せりざわ ひろぶみ、1936年10月23日 - 1987年12月9日)は、将棋棋士。棋士番号68。旧字体の芹澤 博文表記も使われている。

静岡県沼津市出身。高柳敏夫名誉九段門下。文筆家タレントとしても活躍した(盤外での活動を参照)。
来歴

将棋を覚えたのは小学校4年生の頃だった。しかし、その2年後には沼津の将棋大会に訪れた木村義雄十四世名人と二枚落ちで指し快勝しており、神童と騒がれる。

14歳の時に入門、19歳で四段となる。1年目の順位戦こそ惜しくも昇級を逃がしたが2年目からは4年続けて昇級し、24歳でA級八段となる。ちなみにC級2組から4年続けて昇級を果たしたのは、芹沢の他に加藤一二三中原誠谷川浩司の名人経験者3名に、田中寅彦の計4名しかいない。このようなことから芹沢は『若き天才』『俊英』と呼ばれた。

B級1組では、後述の発言の通り11勝1敗という好成績でA級に昇級したが、その後は星が思うように伸びずに僅か2年でA級から陥落した。本人曰く「その気になればいつでも勝てると思っていたから、その気にならず負ける癖がついてしまった」という。以後、B級1組を長らく維持する。その中でも何度かA級復帰のチャンスはあったが、1969年度のB1順位戦では最終局・中原との直接対決で終盤まで優位に進めながらも逆転負けし、A級復帰を逃す。ちなみ中原はこの年10勝3敗でA級に昇級した。1973年度は、最終局に星取りでライバルだった大内延介との直接対戦に敗れてしまい、昇級を逃す。

30代以降は棋士として目立った成績は残していないが、運営面やタレント・文筆活動などで才覚を発揮する(後述)。

1987年12月9日、肝不全のため逝去。51歳没。逝去する直前までバラエティ番組にも出演しており突然の訃報という印象もあったが、死の数年前にも倒れて病院へ担ぎ込まれた経験を持っていた。その際、テレビ番組で共演していたせんだみつおに良医を紹介され「せんださんのお陰で助かりました」と、感謝の意を表している。
人物

奨励会の頃から傲岸不遜な言動で知られており、当時の常務理事に対して「奨励会の昇級規定は生ぬるい。こんな規定で昇級しても恥ずかしいだけだから、自分は(昇級を)辞退する」と啖呵を切ったり、B級1組当時「今の自分なら十番指して二番負けることはない。(A級に)上がるには9勝3敗でいいのだから、二番は不戦敗でいい」などと発言して物議を醸すが、当時から表裏が無く一本筋の通った性格だったこともあり、先輩達からは可愛がられた。

その一方で、若手の面倒見も良かったことで知られる。弟弟子でもあった中原誠は、奨励会時代に毎週日曜日になると芹沢の家を訪ねて稽古を付けて貰っていた。中原が強くなったのも、筋の良い芹沢の将棋を吸収したからだとも言われている。

また一門は違ったものの、米長邦雄も奨励会時代から芹沢に可愛がられていた。低段時代の米長は振り飛車を多く指していたが、芹沢の『若い内から振り飛車を指していては大成しない』という忠告を受け、振り飛車を封印した。その後の米長は居飛車の本格派として急成長を果たす。なお、芹沢の葬儀弔辞は米長が担当している。

名人位に対する思いは強く、名人になる見込みがなくなって以後も折に触れ「俺は名人になれないのかな…」という考えが浮かんで、涙を流していた。

無類の好きとして知られていたが、晩年は酒量が増えて対局もままならないことが少なからずあったという。しかしそんな中、将来の名人候補と目された谷川浩司との1981年度のB1順位戦での対局は、酒断ちをして体調を整えてから谷川と対峙して完璧な指し回しで谷川を破った[1]。また、谷川浩司の棋才と人物を早くから認めて「将来の名人」と断言しており「谷川の応援団長」と自称していた。

一方で芹沢が死去する2年前にデビューして活躍していた羽生善治については、その「筋にこだわらない」棋風を嫌い評価していなかった。羽生と同世代の若手棋士で芹沢が評価していたのは「筋に明るい」将棋を指していた阿部隆である。

若き日には自らを将棋の天才と信じていたが、ある時に才能の限界を自覚し[2]、それ以来酒に溺れる生活を送っている。晩年になると朝からシャブリ・ワインを食事無しに飲み続けていた。尋常ではない酒量により自ら体調を崩した結果の早逝であり、芹沢の死は「時間をかけた緩やかな自殺」とも喩えられた。

盤外での活動

現在も全国各地で行われている「将棋まつり」を企画・立案するなどアイデアマンとしても知られた。また、
1976年には蔵前国技館で「将棋の日」イベントを開催する立役者となった。このイベントは平日開催であったにもかかわらず、8500人もの観客を集めて大盛況に終わる。

山口瞳の『血涙十番勝負』では、連盟サイドでの調整にあたって自らも第六番の対局者として山口と対峙した。

日曜天国』の司会や『アイ・アイゲーム』の解答者など、テレビタレントとしても活躍しており今で言う「文化人タレント」のはしりでもあった。また、1981年の映画『の・ようなもの』では俳優として出演している。

観戦記をはじめ、エッセイなど文章家としても活躍しており、多くの著作を残している。

観戦記でのペンネームは『鴨』。本人曰く『鴨長明のような流暢な文章を書きたい』との思いでこの名を付けた。また藤沢秀行などの近しい人物は、彼のことを新撰組の筆頭局長、芹沢鴨になぞらえて『芹鴨』と呼んでいた。

大の将棋好きであった田中角栄とも親しく、一時期自由民主党からの参議院選挙全国区からの出馬も取り沙汰された。

晩年には作詞・伊奈二朗 / 作曲・山本寛之作の『野風増』で歌手デビューも果たす。

焼酎「おつだね」のCMに長女と共演して「おつだね一杯、ぐいっ!」と台詞を放っている。

1982年に、テレビ東京系時代劇『大江戸捜査網』第542話『待ったなし!二万両の王手』に、当代の将棋名人役で特別出演している。

DAM第一興商)で配信されている北島三郎『歩』のカラオケ(本人映像)では、歌が将棋を題材としているということもあり、自ら出演して北島と対局している[3]

筆禍・トラブル

歯に衣着せぬ筋の通った発言や、秀逸な文章のエッセイは一般大衆から好評を得ていた。しかしその反面、歳を重ねる毎に棋界の内外で数多くの舌禍・筆禍を巻き起こした将棋史上有数のトラブルメーカーでもあり、大山康晴など同時期の棋界の関係者が度々激怒し、盤外で頭を悩ませていた。

数多いトラブルの中でも特に1982年の『対局全敗宣言』はその最たるものであり、解釈によっては『片八百長の宣言』に取れることから物議を醸している。

この全敗宣言は『競争原理が働くはずのプロが、全敗でクラスも落ちず[4]、給料を貰えるのはおかしい』という一種の提言であったが、棋士の中でも賛否両論が出た。

棋士会でも「芹沢を処分すべきではないか」との声が上がったものの、結局お咎め無しに終わった。

一方、C級2組からの降級制度は、この4年後の1986年から復活したことを考慮すると、この件に限れば概ね芹沢の主張に近い結果となっている。


将棋連盟会長であった大山康晴とは、人間的に気が合わなかった。エッセイで度々批判を繰り返す芹沢に激怒した大山が、当時連盟職員だった鈴木宏彦(現観戦記者)に「今すぐ芹沢をここへ連れて来い!」と命じ、鈴木が対処に窮したこともあったという。一方で大山は、芹沢を将棋界に役に立つ人間としては認めていた。

クイズダービーへ弟弟子で当時名人だった中原誠が出演した際に、司会の大橋巨泉が「中原君」と何度も呼んだことに対して「年齢が下だとはいえ、将棋界の頂点に立つ人間を『君』付けとはけしからん。物の常識を知らない男だ」と批判。これ以後、著作で巨泉を攻撃するようになった。後に「クイズダービーでは解答者(はらたいら)に答えを教えている」と週刊誌のエッセイに書いており、巨泉を激怒させている。これに対して巨泉は芹沢を名誉毀損で訴えるつもりでいたが、中原や将棋連盟の巨泉への懸命のとりなしで事なきを得ている。


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