芸濃町河内
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芸濃町河内
町丁
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}芸濃町河内芸濃町河内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度48分18.3秒 東経136度23分12.5秒 / 北緯34.805083度 東経136.386806度 / 34.805083; 136.386806
日本
都道府県 三重県
市町村 津市
地域芸濃地域
町名制定2006年平成18年)1月1日
面積[WEB 1]
 ? 合計33.212144311 km2
標高110 m
人口(2019年(令和元年)6月30日現在)[WEB 2]
 ? 合計50人
 ? 密度1.5人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号514-2207[WEB 3]
市外局番059(津MA[WEB 4]
ナンバープレート三重
※座標・標高は浄徳寺(芸濃町河内106)付近

芸濃町河内(げいのうちょうこうち)は三重県津市大字。本項ではかつて同区域に存在した安濃郡河内村(こうちむら)についても記す。

江戸時代に1,000人を超えていた人口は平成には2桁まで落ち込み、過疎化が進んでいる[1]平家の落人伝承が残り、「平維盛」がある[2]。また、住民は平家の子孫とされ、ほとんどが落合姓を名乗る[2]
地理

津市の北西部、旧・芸濃町の西部にあたる[2]。旧芸濃町の面積の半分以上を占める大きな地区である[2]安濃川上流域の山間部にあたり[3]、四方を山に囲まれている[4]。北東に安濃ダムが所在する。安濃川ではアユの放流が行われ、夏季にはアユ漁が行われる[2]

安濃川に沿って三重県道42号津芸濃大山田線が北東から南西に通過する[2]集落はこの県道に沿って形成され、南ノ垣内・六呂屋・覚ヶ野・下ノ垣内・落合・北畑・杖立・梅ヶ畑・宝並の9つからなっていたが、杖立は安濃ダム建設のため、錫杖湖に沈んだ[2]。このうち、南ノ垣内・六呂屋・覚ヶ野を「上の垣内」、下ノ垣内・落合・北畑・杖立を「中の垣内」、梅ヶ畑・宝並を「下の垣内」という[5]

北に錫杖ヶ岳、南東に摺鉢山・稲子山・経ヶ峰がそびえる。錫杖ヶ岳では近代まで雨乞いが行われた[4]

山岳 - 摺鉢山(464.7m[4])、稲子山、経ヶ峰(819.3m[4])、錫杖ヶ岳(677m[4]

湖沼 - 錫杖湖(安濃ダム)

河川 - 安濃川、宝並川、笹子川、北畑川、我賀浦川、嘉嶺川、黒曽川

東で芸濃町忍田・芸濃町雲林院、南で芸濃町小野平・芸濃町多門・安濃町草生・美里町穴倉・美里町北長野・美里町平木、北で芸濃町楠原および亀山市加太神武・加太向井・関町越川・関町福徳、西で伊賀市上阿波に接する。
歴史
近世まで

河内の落合集落にある成覚寺には『安濃郡河内村の始メ』という文書が所蔵されており、河内が平家の落人の村であると伝えている[6]。『神鳳鈔』には「内宮河智御厨」の記述があり、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の御厨であった可能性があるものの、河智御厨が今の芸濃町河内であるとする確証はない[4]

近世には伊勢国安濃郡河辺組、後に高野尾組に属し、河内村として津藩の配下にあった[3]文禄3年(1594年)に394石余だった村高は慶安元年(1648年)に400石余に、天保期(1830年 - 1844年)に429石余に増加、『旧高旧領取調帳』では430石余となった[7]。この村高はほとんどがは非常に少なく[4]、畑は「切畑」と呼ばれる焼畑であった[8]。焼畑での産物はダイズアズキを主とし、ソバアワヒエも生産した[9]。山中では薪炭ワラビを産し、寛政5年(1753年)から藩政改革のため、村の所有する山が津藩の御林(藩有林)となり、スギヒノキキリコウゾが植林されたほか、藩はコウゾの苗木を配布し製紙業を奨励した[10]。藩有林は天保8年(1837年)に褒賞として田中治郎左衛門に与えられた[10]。また雲林院5ヶ村(雲林院・椋本・忍田・萩野・岡本)の共有山林が河内村にあったため、これらの村との山争いが頻発した[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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