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議論の要約:IPユーザーによる各作品の記述改変について
芸映プロダクション
GEIEI CO.,LTD.種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
〒153-0044
東京都目黒区大橋1丁目7-12
設立1959年3月10日
業種サービス業
法人番号9013201001781
事業内容タレント、歌手、俳優のマネージメント
代表者代表取締役社長:青木純一郎
従業員数30名
主要子会社芸映音楽出版
芸映タレントアカデミー
芸映タレント・ステーション
ワイズプランニング
関係する人物宮田重雄(創業者)
外部リンクhttps://geiei.co.jp/
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芸映プロダクション(げいえいプロダクション)は、東京都目黒区にある芸能事務所である。 1957年、「伴淳三郎東京事務所」と兼ねる形で設立した「東京芸映プロダクション」を前身とする[1]。1959年3月10日、中央区銀座8-19に「株式会社芸映」の社名で発足(初代社長は医師で画家の宮田重雄[1])。1961年、喜劇俳優の伴淳三郎が2代目社長に就任。 発足当時は外国テレビ映画『アラゴンの城塞』『遥かなる戦線』『忘れられた人々』『独逸かく戦えり』『命ある限り』などを輸入したり、角丸証券、東洋レーヨンなどのCF制作が中心の企業であった。 1962年[2]、タレントのマネジメント業に進出。以降、エミー・ジャクソンの「涙の太陽」(1965年)、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)のヒット等で礎を築く[1] 。 1965年、芸映音楽出版
沿革
1968年、伴のマネージャーだった[1]青木伸樹が3代目社長に就任。
長らく赤坂のアマンド向かいのビルに事務所を構えていたが、1998年から目黒区に移転している。
歴史
1972年 - 西城秀樹デビュー
1973年 - 浅田美代子デビュー
西城秀樹が「ちぎれた愛」で第15回日本レコード大賞・歌唱賞受賞
浅田美代子が「赤い風船」で第15回日本レコード大賞・新人賞受賞、TBS・水曜劇場「時間ですよ」に出演
1974年
西城秀樹が「傷だらけのローラ」で第16回日本レコード大賞・歌唱賞、第5回日本歌謡大賞・放送音楽賞受賞
西城秀樹、浅田美代子がTBS・水曜劇場「寺内貫太郎一家」に出演
1975年 - 岩崎宏美デビュー、相本久美子移籍
岩崎宏美が「ロマンス」で第17回日本レコード大賞・新人賞、第6回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞受賞
西城秀樹、浅田美代子、相本久美子がTBS・水曜劇場「花吹雪はしご一家」に出演
1976年 - 角川博デビュー
西城秀樹が「若き獅子たち」で第18回日本レコード大賞・歌唱賞受賞
角川博が「嘘でもいいの」で第18回日本レコード大賞・新人賞受賞
1977年 - 清水由貴子・岸本加世子デビュー
岩崎宏美が「思秋期」で第19回日本レコード大賞・歌唱賞、第8回日本歌謡大賞・放送音楽賞受賞
浅田美代子が結婚引退(芸能界には後に復帰)
岸本加世子がTBS・水曜劇場「ムー」に出演
1978年
西城秀樹が「ブルースカイ ブルー」で第20回日本レコード大賞・金賞(以降1983年まで6年連続)受賞
岩崎宏美が「シンデレラ・ハネムーン」で第20回日本レコード大賞・金賞(以降1981年まで4年連続)受賞
岸本加世子がTBS・水曜劇場「ムー一族」に出演
1979年
西城秀樹が「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」で第10回日本歌謡大賞受賞
1980年 - 河合奈保子デビュー
河合奈保子が「ヤング・ボーイ」で第22回日本レコード大賞・新人賞受賞
岸本加世子が富士フイルム「フジカラー」のCMに樹木希林と共演し人気を博す
1981年
岩崎宏美が「すみれ色の涙」で第23回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞受賞
河合奈保子が「スマイル・フォー・ミー」で第23回日本レコード大賞・ゴールデンアイドル賞受賞
1982年 - 石川秀美デビュー
岩崎宏美が「聖母たちのララバイ」で第13回日本歌謡大賞受賞
河合奈保子が「けんかをやめて」で第24回日本レコード大賞・金賞(以降1985年まで4年連続)受賞
石川秀美が「ゆ・れ・て湘南」で第24回日本レコード大賞・新人賞受賞
1983年