芳賀紀行
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芳賀 紀行
ヤマハYZF-R1を駆る芳賀(2008年8月)
国籍 日本
生年月日 (1975-03-02) 1975年3月2日(49歳)
愛知県名古屋市
ゼッケン41
ウェブサイト

nitro-nori41.com/main.htmlNitro Nori 41 - YouTubeチャンネル

レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1998年, 2001年, 2003年
初レース1998年 日本GP
最終レース2003年 バレンシアGP
チームヤマハ, アプリリア
2003年 順位14位 (47pts)

出走回数勝利数表彰台PPFL総ポイント
320101122

スーパーバイク世界選手権
活動期間1994年?2000年, 2002年, 2004年?2011年, 2013年
2013年 順位41位 (2pts)

出走回数勝利数表彰台PPFL総ポイント
312431167523691


芳賀 紀行(はが のりゆき、1975年3月2日 - )は、愛知県名古屋市出身のオートバイロードレースライダー。ヨーロッパにおいても、その技量・経験から、高い評価と人気を誇る。

兄は元ヤマハワークスライダーの芳賀健輔 (はが けんすけ)。スーパーバイク世界選手権に参戦していた加賀山就臣と仲が良い。
来歴

1996年鈴鹿8時間耐久ロードレースで史上最年少、最多周回数記録で優勝。1997年全日本ロードレース選手権スーパーバイククラスチャンピオン。以降、スーパーバイク世界選手権を主戦場にし、世界戦のトップクラスを走る。

2008年スーパーバイク世界選手権チャンピオンのトロイ・ベイリスが引退する際に後継者に指名され、悩んだ末「チャンピオンを獲りたい」とドゥカティ・ワークスチームへの移籍を決断した[1]

2010年スーパーバイク世界選手権からのドゥカティ・ワークスチームの撤退を受け、DFX PATA Apriliaに移籍。アプリリアから供給されるワークススペックのRSV4を駆りスーパーバイク世界選手権に参戦した。

2012年Swan Yamahaに移籍しブリティッシュスーパーバイク選手権に参戦。

2013年加賀山就臣、ケビン・シュワンツと共にチームカガヤマから鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦。また、Rapid Solicitors Kawasakiからブリティッシュスーパーバイク選手権の後半3ラウンドに出場した。

2020年、オーナーとして『NITRO RACING 41』を発足させ、宗和孝宏をチーム監督に迎え全日本選手権に参戦開始[2]

2022年youtubeチャンネル『Nitro Nori 41』を開設し、動画配信を開始。
ライディングスタイルなど

ハングオンの時に、体が車体の陰に隠れるほど体を傾けるライディングスタイルは非常にアグレッシブに映る。芳賀は「縁石はコース内」と言っているが、ほとんどのライダーがサーキットの路面とは摩擦係数が異なる縁石に乗り上げるのを極力避ける事を考えると、スリップダウンを怖がらない芳賀のアグレッシブさを如実に示すコメントである。

アグレッシブさに隠れてはいるが、芳賀の真の得意技はロケットスタートである。2009年には低中速が速いドゥカティとのコンビネーションもあって、「予選は2列目までに入れれば十分」と言われるほどの強烈なスタートでいきなり4?5台を1コーナーまでに抜き去り先頭グループに乱入、上位でレースをコントロールしながら要所で抜き去る、もしくは一歩引いて前のミスを我慢強く待ちながらポイントランキングをコントロールするというレースが目立つ。

他のライダーに比べてコーナーのイン側を常に走るラインを得意としており、独自のライン取りを行う。アメリカのラグナ・セカでは、芳賀のその独特な走行ラインは「芳賀ライン」と呼ばれる。

ニックネームは「Nitro Nori」。マスコットは「狂犬」。その走りは勝つか転ぶかとまで言われるほど[1]激しいものである。速さは充分だが転倒やマシントラブルによるリタイヤも多いため未だ世界選手権では無冠であるが、強気で魅せるライディング、ユニークなパフォーマンスなどで高い人気を誇り、スーパーバイク世界選手権に欠かせない存在となっている。F1ワールドチャンピオンで二輪レース観戦も好きなミハエル・シューマッハも芳賀のファンである。転倒はするが受身の技術は高く、レース活動開始から2008年ソルトレイクでのレースまで「転倒を起因とする骨折」は一度もしておらず、その骨折が人生で初の骨折であった。

純粋レーサーマシンによるMotoGPよりもスーパーバイク選手権のような市販車改造レースに強く、トップを走るライダーの後ろにぴたりとつけて、わずかなラインの隙を逃さずに飛び込んでいく様は職人芸とも言える。

ゼッケンはどのカテゴリーのレースであっても特殊な事情がない限り「41」であり、自らのウェブサイトのアドレスの一部等にも41を取り入れている。父の誕生日が4月1日であることも重なり愛用のナンバーとなっている。
戦績

1992年 - ロードレース関東選手権SP250 ランキング2位

1993年 -
全日本ロードレース選手権250cc ランキング13位

鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア(松下順一ヤマハ・YZF750SP


1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング9位

鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア(平山雅也/ヤマハ YZF750SP)


1995年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング10位

鈴鹿8時間耐久ロードレース 22位(近藤靖典/ヤマハ YZF750SP)


1996年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング8位

鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝(コーリン・エドワーズ/ヤマハ YZF750)


1997年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク チャンピオン

鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア(芳賀健輔/ヤマハ YZF750)


1998年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング6位

鈴鹿8時間耐久ロードレース 6位(サイモン・クラファー/ヤマハ YZF750)


1999年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング7位(ヤマハ・WSBK・チーム/ヤマハ YZF-R7)

鈴鹿8時間耐久ロードレース 4位(レジス・ラコーニヤマハ・YZF-R7


2000年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング2位(ヤマハ・WSBK・チーム/ヤマハ YZF-R7)

鈴鹿8時間耐久ロードレース 18位(吉川和多留/ヤマハ/ポールポジション獲得)


2001年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング14位(レッドブル・ヤマハ・WCM

2002年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング4位(PlayStation 2-FGF・アプリリアアプリリア・RSV mille sp

2003年 - ロードレース世界選手権MotoGP ランキング14位(Alice・アプリリア・レーシング/Aprilia RS3)

2004年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング3位(レネゲイト・ドゥカティドゥカティ・999RS

2005年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング3位(ヤマハ・モーター・イタリア/ヤマハ YZF-R1)


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