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芳村 真理
『映画情報』1960年3月号より
本名大伴 稲(旧姓:吉村)
生年月日 (1935-04-03) 1935年4月3日(89歳)
出生地 日本・東京府東京市日本橋区
(現:東京都中央区日本橋)
血液型AB
職業現在は森林活動家・会社経営者
活動期間1955年 ‐
活動内容司会業・女優
配偶者ミッキー・カーチス(1962 ‐ 1964年)
大伴昭(1968年 ‐ 2018年)
著名な家族吉村実子(実妹)
主な作品
バラエティー番組など
『夜のヒットスタジオ』
『料理天国』
『新春かくし芸大会』
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芳村 真理(よしむら まり、1935年4月3日 - )は、日本の女優、モデル、タレント、司会者。元所属事務所はHIRAKU(東京都港区元赤坂)[1]、生島企画室である。
略歴
東京府東京市日本橋区(現:東京都中央区)日本橋の生まれ。生家は農家で、本名の「稲」は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}妹(実子)と共に農業・農作物に因んだ名前としてつけられたと思われる[独自研究?]。また、芸名の「芳村」は旧姓の「吉村」の「吉」を出身地である日本橋・芳町の「芳」に替えたものである。第二次世界大戦中は宮城県に疎開する[要出典]。
東京都立西高等学校出身[注釈 1]。高校卒業後、都内のデパート勤務を経て[2][出典無効]、銀座の山野美容会館(山野愛子)内に在ったモデルクラブFMG(ファッション・モデル・グループの略、1952年に発足した日本初のモデルクラブであるTFMC(東京ファッションモデルクラブ)の分裂騒動により発足、現存する最古参のモデルクラブ)へ所属。1950年代後半(昭和30年代前半)において、人気ファッションモデルとして、各デザイナーのショーや「週刊朝日」をはじめとする雑誌等の表紙グラビア(カバーガール)を飾るなどの活躍を見せる。このモデル時代に「ザ・ヒットパレード」(フジテレビ)で、初めての司会を担当している。彼女のモデルでの活躍は団令子らと共に「ファニー・フェイス」の代表格として「美人」の固定観念を打破する一助となった。
1960年
1960年(昭和35年)、大島渚監督の誘いを受けて松竹「霧ある情事」で映画女優として本格的に芸能活動を開始。以後、「黄色いさくらんぼ」、「喜劇駅前シリーズ」の脇役等、約80本の映画に出演。また、「日産スター劇場」(日本テレビ)など、テレビドラマにも活躍の場を広げた。他方、当時隆盛を極めた学生運動等にも賛同しており、リベラルな思想の持ち主としても知られていた。
1966年(昭和41年)12月、フジテレビ系「小川宏ショー」の2代目ホステスとなり、以後、女優業を休業し司会者へと転身。当初、番組制作サイドは「夜のイメージ」があるという理由で起用に難色を示し、朝の番組ではまず珍しかったミニスカートを履いて司会をするというスタイルには視聴者の反発も強かったといわれているが、それまでの女性司会者にはない個性の強さがかえって20代・30代の主婦層が共感を覚え、徐々に支持を得るようになった。
1968年(昭和43年)3月、日本コカ・コーラ等、海外企業の日本での現地法人設立に数多く参画していた実業家の大伴昭(後に日本ポラロイド、キヤノン取締役、カルティエ・ジャパン社長を歴任。2018年没、享年89)と再婚。「小川宏ショー」を降板するが、同年11月、フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」スタートと同時に当時の人気司会者・前田武彦(マエタケ)と共に司会に抜擢される。当初はマエタケのアシスタント的色彩が強かったが、マエタケ降板の後からは彼女がこの番組の屋台骨となり、男性司会者は三波伸介、井上順、古舘伊知郎と交替する中、芳村は1988年(昭和63年)2月の第1000回で降板するまで司会を担当。男性がメイン、女性がアシスタントというMCスタイルが多かった中で、台本を片手に持ちながら「自然体」の話術で進行をするという独特な司会スタイルが受け、「女性でメインをはれる司会者」の草分けとしてその名をテレビ史に残した。また、そのヘアスタイルやファッションはこの番組の名物となった。出演歌手、特に新人歌手の場合、極度の緊張で臨むことが多かったといわれる「ヒットスタジオ」の中で、その緊張感をほぐす精神的支柱としての役割をも担うことが多かったり、女優・男優を出演させる際には彼女の人脈が重要であった等、「ヒットスタジオ」における彼女の存在感は絶対的なものがあった(後年、石野真子もこのことについては述べている)。
その後も、「3時のあなた」(フジテレビ)、「ラブラブショー」(フジテレビ)、「料理天国」(TBS)など斬新な企画を目玉とする番組の司会を担当。また、「FNS歌謡祭'77?'86グランプリ」(フジテレビ)、「新春かくし芸大会」(フジテレビ)といった大型番組の司会も長年にわたり務め、黒柳徹子、うつみ宮土理らと共に1980年代までは大物女性司会者の一人としてブラウン管でもお馴染みの顔であった。芳村の、男性司会を立てつつ進行をしていくというスタイルは「くだけた感じの品位」という絶妙の雰囲気を番組にもたらし、各番組の長寿化を後押しする一助となった(特に「かくし芸」での高橋圭三とのコンビ、「FNS歌謡祭'78?'86グランプリ」での露木茂とのコンビ、「料理天国」での西川きよしとのコンビ、「夜ヒット」での井上順とのコンビはそれぞれ約10年近くに渡る長期司会となった)。
1988年2月に「この辺りで人生の一区切りを付けたい」という意思を表明して、約20年間にわたってレギュラー司会者を務めた「夜のヒットスタジオ」を降板した。1990年頃までは「知ってるつもり?!」、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」(いずれも日本テレビ)などにもゲスト出演していたが、1992年、これも長く司会を務めたTBS「料理天国」終了と同時に、司会業等の主だった芸能活動は事実上セミリタイアとなり、その後メディアへは単発的なゲスト出演がメインとなる。