芳川顕正
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日本政治家芳川 顕正よしかわ あきまさ

生年月日1842年1月21日
天保12年12月10日
出生地 日本 阿波国麻植郡山川町
(現:徳島県吉野川市
没年月日 (1920-01-10) 1920年1月10日(77歳没)
死没地 日本 東京府
称号従二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
子女藤田富子(三女)
芳川鎌子(四女)
親族芳川寛治(婿養子)
藤田平太郎(娘婿)
第4代 枢密院副議長
在任期間1912年1月9日 - 1917年3月20日
第19代 内務大臣
内閣第1次桂内閣
在任期間1904年2月20日 - 1905年9月16日
第12代 逓信大臣
内閣第1次桂内閣
在任期間1901年6月2日 - 1903年7月17日
第9代 逓信大臣
内閣第2次山縣内閣
在任期間1898年11月8日 - 1900年10月19日
第12代 内務大臣
内閣第3次伊藤内閣
在任期間1898年1月12日 - 1898年6月30日
その他の職歴
第5代 司法大臣
1893年3月16日 - 1896年9月26日
第9代 内務大臣
(1896年2月3日 - 1896年4月14日
第3代 文部大臣
1890年5月17日 - 1891年6月1日
初代 内務次官
1886年3月3日 - 1890年5月17日)
第8代 東京府知事
1882年7月19日 - 1885年6月13日
第2代 紙幣頭
1872年7月7日 - 1874年1月15日
貴族院議員(子爵)
1900年11月28日 - 1907年9月21日)
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芳川 顕正(よしかわ あきまさ、天保12年12月10日1842年1月21日) - 大正9年(1920年1月10日)は、日本官僚政治家[1]。旧姓は原田、高橋、幼名は賢吉[2]。号は越山[3]栄典従二位勲一等伯爵

官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。東京府知事では市区改正や築港に尽力し、第1次山県内閣の文部大臣では教育勅語の制定に関与した[4]

男子に恵まれず、四女の鎌子に子爵曾禰荒助の次男を婿養子にとって家を継がせた(芳川寛治)。三女の富子は藤田財閥2代目藤田平太郎夫人。
来歴

阿波国麻植郡山川町(現・徳島県吉野川市)で医師であった原田民部の5人兄弟の末子として生まれる。母は慶子[4]原田家は先代より医療行為を仕事としていたという。少年の頃、近隣の富豪原田辰次郎のもとへ商売見習いに遣わされる[2]。幼少期の名は原田賢吉。浅野玄碩より医学を学び[4]、21歳の時に徳島市の医師・高橋文昨の養子となり高橋賢吉と名乗った[2]

文久2年(1862年)、22歳の時に長崎に遊学するが、はしかに罹り数ヶ月で帰藩する[5]

元治元年(1864年)、長崎に再訪し、医師中村某の知遇を得てその塾頭となる[5]。翌年には養生所(小島養生所)にて医学修業をする傍ら、何礼之に師事して英学を学び、瓜生寅前島密が元治元年(1864年9月)に開設した倍社でも英学を学んだ[4]。また、徳島からの長崎遊学生(長井長義や山田要吉)に洋学を講じた[5]
一時徳島に帰藩後、慶応3年(1867年)、27歳で3度目の長崎に到り、養生所(小島養生所)で医学と化学を修めるが、この養生所において、伊藤博文(俊輔)に会い、長崎にて交遊する。この時、英国帰りで会話はできても読み書きが不自由であった伊藤に英文法を教えたのが、後に官途につくきっかけとなった[4][5]。伊藤もこの時27歳で、同年8月(旧暦)に木戸孝允(桂小五郎)とともに、1ヶ月ほど長崎に滞在したのち、上京して再び長崎を訪れ、同年10月4日(旧暦)グラバー商会と汽船一隻借入の契約を結び、11月3日(旧暦)には薩摩藩士吉村荘蔵という仮名を使って大徳寺に寓居していた。大徳寺はフルベッキが居住した場所であるが、養生所はこの寺のすぐ上にあった。『伯爵芳川顕正小伝』によると、養成所を訪れた伊藤から英語の教授を頼まれて、翌日伊藤が寄寓する大徳寺を訪ねたとあり、伊藤が11月下旬(旧暦)に長崎を離れるまでの約2ヵ月ほどの間に英語を教えていたと思われる[5]

同慶応3年(1867年)、鹿児島に赴いて、海軍所の賓客として航海、数学、兵学書の翻訳を行ったのち、故郷の徳島で洋学教授を務める[4]

徳島藩士から維新新政府に入ることになるが、明治元年(1868年)に芳川と改姓した[4]

明治3年(1870年)に大蔵省に出仕し、翌年にかけて伊藤博文と渡米し貨幣・金融制度の調査に従事する。明治5年(1872年)に大蔵省紙幣頭となり、工部大丞、工部大書記官、電信局長などを歴任した。明治12年(1879年から翌年にかけてイギリスに出張して万国電信会議に出席。同15年(1882年)に東京府知事に就任する[4]

山縣有朋の側近として知られ、明治23年(1890年)に第1次山縣内閣文部大臣に就任した。


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