「花見」のその他の用法については「花見 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
花見をする義経(奥)と弁慶(手前)。『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。1885年(明治18年)刊。月岡芳年作。
花見(はなみ)は、樹木に咲いている花、主にサクラの花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。副称
は観桜(かんおう)である。サクラは、日本全国に広く見られる樹木である。花見で話題になる代表的な品種のソメイヨシノはクローンであるため、各地で「休眠打破
」がなされてから各地の春の一時期において、おおむね地域毎に一斉に咲き競い、日本人の季節感を形成する重要な春の風物詩となっている。サクラは開花から散るまでの期間は2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は、人の命の儚さになぞらえられたり、または古来、「サクラは人を狂わせる」と言われたりしてきた[1]。
独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見弁当や酒を愉しむ宴会を開くことが伝統的である。花を見ながら飲む花見酒は風流なものではあるが、団体などの場合、乱痴気騒ぎとなることも珍しくない(「諸問題」の項を参照)。陰陽道では、サクラの陰と宴会の陽が対になっていると解釈する。
花見は、訪日外国人旅行の来日目的になったり、風習としてアジアや欧米に伝わったりしている[2]。北半球と南半球は季節が逆転しているため、地域毎に年中行事としての花見の時期は異なる。 日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりのウメが鑑賞されていたが、平安時代にサクラに代わってきた。また『万葉集』にはサクラを詠んだ歌が43首、ウメを詠んだ歌が110首程度みられ、梅花の宴のようにウメを観賞しながらの歌会も開かれていた。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、サクラが70首に対しウメが18首と逆転している。「花」がサクラの別称として使われ、女性の美貌がサクラに例えられるようになるのもこの頃からである。 『日本後紀』には、嵯峨天皇が812年3月28日(弘仁3年2月12日)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催した[3][4]とある。時期的に花はサクラが主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は地主神社のサクラを非常に気に入り、以降神社から毎年サクラを献上させたといい、当時花見の花として梅が一般的だったが、サクラの花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人のサクラ好きの原点と見られる[5]。831年(天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『作庭記』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代においてサクラは庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこの頃に誕生したと考えられている[5]。 鎌倉・室町時代には貴族の花見の風習が武士階級にも広がった[6]。兼好法師は『徒然草』第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、ともあれ『徒然草』が書かれた鎌倉末期から室町初期の頃には既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。 織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される[注 1]。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉が行った吉野の花見(1594年(文禄3年))や醍醐の花見(1598年4月20日(慶長3年3月15日))がある[3]。 花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代といわれる。サクラの品種改良もこの頃盛んに行なわれた。江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、天海大僧正(1536年(天文5年)? - 1643年(寛永20年))によって植えられた上野恩賜公園のサクラである。しかし格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、1720年(享保5年)に徳川吉宗が浅草(墨田川堤)や飛鳥山にサクラを植えさせ[7]、庶民の行楽を奨励した。吉宗は生類憐れみの令以降途絶えていた鷹狩を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場にサクラの木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。江戸の城下・近郊の花見の名所は上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤の他にも、御殿山、愛宕山、玉川上水など少なからずあった。この時期の花見を題材にした落語としては、『長屋の花見』や『あたま山』、飛鳥山の花見を想定して作られた『花見の仇討(あだうち)』などがある。 明治に入ると、サクラが植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されてサクラも焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り[5]、1886年には荒川堤のサクラ並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着[5][8]。78種が植栽された荒川のサクラは各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれ、全国へ広がった(1912年には、日米友好の印として荒川のサクラの苗木3000本がアメリカ合衆国の首都ワシントンに贈られ、ポトマック川畔に植栽された)[5][8]。
飲食型の花見
ピクニック型の花見
サイクリングと花見
ウォーキングと花見(大阪造幣局)
歴史
勝川春亭による花見の図。1820年頃
歌川広重「浪花名所図会 安井天神山花見」(1834年頃制作[9])[10]。踊りに興じる花見客。花見弁当に酒、三味線も見える。
歌川国貞「六条御所花之夕宴」(1855年制作)[11]
墨堤(隅田川の堤)の花見客を描いた三代広重の「東京名所第一の勝景墨水堤花盛の図」1881年。
楊洲周延「千代田大奥 御花見」(1894年制作)[12]。大奥の女性たちの花見。
江戸川桜花満開(「東京名所写真帖」 1910年7月発刊)[13]