『花物語』(はなものがたり)は、吉屋信子の少女小説である。少女の繊細な心模様を数々の花に托した54の短編からなる連作集であり、日本の少女小説の代表的作品である。吉屋が小説家として手がけた初めての作品であり、後に重版された単行本の序文で「小説家として世に立つことになった、大きな原因」[1]となる作品であると述べている。
作品解説吉屋信子(1928年)
吉屋が20代の頃に執筆した短編連作集で、1編ごとに花にちなんだ表題を掲げ、独特の美文調で綴られている。1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、雑誌『少女画報』に断続的に連載され、1925年(大正14年)7月から1926年(大正15年)3月にかけて『少女倶楽部』に3編が連載された。挿画は連載された雑誌ごとに異なり、『少女画報』の連載では亀高文子・清水良雄・蕗谷虹児らが描き、『少女倶楽部』の連載では中原淳一が描いた。また、1937年(昭和12年)から2年間、『少女の友』増刊号に再録された際にも中原が挿画を担当した。
当初はある邸の洋館に集まった少女が、1話ごとに花にまつわる悲話を互いに告白する設定であった。ところが、連載を継続するにつれて1話の完結に数ヶ月かかるようになり、情感と共に物語性を重視した話が増えた[2]。
連載中である1920年(大正9年)に洛陽堂から単行本として出版され、その後も交蘭社・実業之日本社・ポプラ社・朝日新聞社・国書刊行会・河出書房新社など、数多くの出版社から単行本が出版された。しかし、洛陽堂を始めとする多くの出版社から単行本が出版された際には、『少女倶楽部』に掲載された最後の2作である「薊の花」「からたちの花」が含まれていないため、この2編を除いた52編を全容と解釈されることが多い[2]。 少女の物語は、『花物語』以前の作品では母と離れて少女が彷徨うものが主流であった。しかし、この作品において重要な主題として挙げられるのは、実の母と離れた少女が別の少女や女性と築く友愛関係である。実の母との別離は、少女同士が友愛関係を築く前提として存在するが、主題とは異なる[3]。 作品に登場する少女たちは、様々な事情で実の母とは距離を置かざるを得ない状況にあるが、女学校や寄宿舎などの女性しかいない環境下で、実の母以外の女性と「母娘にも似た深い関わり」[3]を持つことになる。相手となる少女や女性は、少女と置かれている環境の違いはあっても孤独を感じている設定であることが多く、友愛関係を築くことによって互いに孤独から開放される[4]。 連載後期になると、そのような友愛関係の延長として同性愛に発展する話も増えた。連載初期の頃は相手に控えめに思いを寄せる姿を描いていたが、後期の作品では異性愛と同格にとらえて描かれるようになり、作品によっては異性愛よりも上位に存在する愛の形として描かれるようになった[4]。 特にこうした女学生同士の強い絆のことをエスと言い、女学生の文化として少女たちから支持され、現実の学校でも少女同士の情熱的な関係が結ばれることが多かった[5]。 『花物語』に見られる独自の文体は美文調と評されるが、主語も述語も曖昧で、当時の日常生活では使われなかった古文調の言葉や文字が用いられている[6]。本田和子は、『幻影の盾』などでアール・ヌーヴォーを思わせる美文を書いたこともある夏目漱石や、王朝文学 また、連載当時は『少女の友』などの雑誌の投稿欄を通して、読者同士が文通などによって交流を持つ機会も少なくなかったが、彼女たちが用いていた文体に似ているという指摘もある[7]。 洛陽堂から1920年(大正9年)[8]に刊行された単行本(全3巻)ははがき大の大きさで、本を収めるセピア色のケースの中央部には四角形の白い和紙が貼られ、繊細な文字で「花物語」と書かれている。本自体も深い緑色に金粉でスズランの花が描かれている[9]。また、1923年(大正12年)から1926年(大正15年)[10]に渡って交蘭社から刊行された全5巻の単行本は手の平に載るくらいに小さなサイズである。須藤しげるが挿画を担当し、表紙には花の絵が施されている[11]。 昭和以降も単行本が刊行され、雑誌の連載を目にすることがなかった人々にも愛読された。1939年(昭和14年)に実業之日本社から刊行された、中原が表紙や挿画を手がけた単行本は、特に女学生の評判を呼んだ[12]。1985年(昭和60年)にはこの単行本を底本とした上・中・下巻が国書刊行会から刊行され、平成になってからも同社から1995年(平成7年)には新装版が刊行された。さらに2009年(平成21年)には、河出書房新社からオリジナルの装丁による上・下巻の単行本が刊行された。
主題
文体
単行本