花山院長定
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 凡例花山院長定
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕文保2年(1318年
死没不詳
改名長定→静圓(法名)
別名護法院
官位正二位右大将内大臣
主君後宇多上皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇
氏族花山院家
父母父:花山院家定、母:花山院長雅の娘
兄弟良定経定花山院師賢室、長定、尊浄、尊兼、定伊、経雲、近衛経忠正室
兼定、定尊
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花山院 長定(かざんのいん ながさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿右大臣花山院家定の三男。官位正二位内大臣右大将。護法院と号す。花山院家10代当主。
三男にして家を継ぐ

兄2人が早世したために三男にして花山院家を継いだ。しかし長定自身も30代で辞官・出家しまい、子の兼定は若年にして家を継がねばならなくなる。
経歴

以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『師守記』、『園太暦』の記事に従って記述する。

嘉暦元年(1326年)8月9日、少将を経ず左中将に直任される[1]。これは同年1月に兄・経定権中納言のまま薨去したことによると考えられる。

嘉暦3年(1328年)3月24日、伊予介を兼ねる。同年9月21日、正四位下に叙され、同年11月27日には従三位に叙された。左中将は元の如し。

元徳2年(1330年)4月7日、権中納言に任ぜられ、同年8月4日には正三位に昇叙。

建武2年(1335年)1月5日、従二位に昇叙。

建武3年/延元元年(1336年)11月25日、左兵衛督を兼ねる。

建武4年/延元2年(1337年)7月20日、左衛門督に転任。

建武5年/延元3年(1338年)4月28日、大嘗会検校を務め、同日正二位に昇叙。同年8月4日には左衛門督を止められる。

暦応2年/延元4年(1339年)12月27日、権大納言に転任。

興国3年/暦応5年(1342年)1月21日、養母の喪に服した。同年4月28日には父・家定が薨去したので再び喪に服し、同年9月7日に復任した。

正平3年/貞和4年(1348年)10月7日、右大将を兼ねる。

正平4年/貞和5年(1349年)9月13日、大納言に転正。

正平6年/観応2年(1351年)6月26日、内大臣に任ぜられる。任内大臣の兼宣旨はなく右大将は元の如し。同年9月19日、素懐を遂げ出家した[2][3]。法名静圓。

系譜

父:
花山院家定(1283-1342)

母:花山院長雅の娘

妻:不詳

男子:花山院兼定(1338-1378)

男子:定尊


脚注[脚注の使い方]^師守記貞和5年3月の記事に、十才未満で中将・少将に任ぜられた例として長定も挙げられている。同書には左中将に任ぜられた時、長定は正五位下侍従であったと記されている。
^公卿補任』によれば所労危急により菩提心が生じたためのようである。以後の動静は不詳だが急逝したわけではなく、『園太暦』文和4年(1355年)9月4日の条には既に入道していた長定が黒衣を着て深草金剛寿院に参じたとあるので、没年はこの年以降であろう。
^ 長定が辞した右大将は久我通相が任ぜられるまで約3年間空席状態が続いた。

参考文献

公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 嘉暦3年(1328年)に長定が非参議従三位となった時以降の記事。

尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「花山院長定」および「花山院家定」の項。

園太暦』 続群書類従完成会 岩橋小弥太・斎木一馬・黒川高明・厚谷和雄校訂


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