花山院師賢
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例花山院師賢
藤原師賢(菊池容斎前賢故実』より)
時代鎌倉時代後期
生誕正安3年(1301年
死没元弘2年/正慶元年10月末(1332年11月)[1]
改名師賢→素貞(法名)
別名尹大納言
諡号文貞公
戒名得聖院随誉華巌帝高
墓所(伝)千葉県成田市名古屋の公家塚
官位正二位大納言太政大臣
主君後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族花山院家
父母父:花山院師信、母:恵一娘
兄弟兼信、師賢、信忠、賢季
花山院家定娘、源仲時娘、日野俊光
子経賢、信賢家賢、三条局、女子
テンプレートを表示

花山院 師賢(かさんのいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿歌人内大臣花山院師信の二男。官位正二位大納言太政大臣後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総国で没した。

後醍醐朝の有力歌人であり、『続千載和歌集』以下の勅撰和歌集に14首が入集したほか、准勅撰和歌集『新葉和歌集』にも文貞公(ぶんていこう)の諡号で49首が採られた。
経歴師賢を祀る小御門神社千葉県成田市師賢の墓所と伝えられる公家塚

正安4年(1302年)1月に僅か2歳で叙爵徳治元年(1306年)12月に侍従になり、右少将・左中将などを経て、正和5年(1316年)11月に従三位、翌文保元年(1317年)12月に参議として公卿に列した。同2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚すると、7月には上席参議4人を越えて権中納言に任じられる。当初は父と同じく持明院統に出仕した師賢だが、その母が天皇の母(談天門院)と近い血縁に当たるためか、やがて後醍醐から重用されるようになり、中宮権大夫左衛門督弾正尹などを歴任した。正中3年(1326年)2月権大納言、嘉暦2年(1327年)11月正二位に叙任され、同4年(1329年)6月には大納言に転じた。また、『増鏡』によれば、後醍醐天皇と側室の二条藤子の間に生まれた「若宮」(懐良親王[2])の乳父(後見人・教育係)になったという。

元弘元年/元徳3年(1331年)8月元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。これを天皇と思った延暦寺衆徒は大いに士気を挙げ、押し寄せる六波羅の幕府軍をよく撃退したので、天皇は追撃を受けずに笠置に潜幸することが可能となったのである。じきにその謀略が露見し、失望した衆徒は離反するに至り、師賢らは密かに山を下って笠置に拠る天皇と合流した。しかし、1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日に笠置が陥落し、師賢は天皇に従って敗走するも、その途中で捕捉されて、翌29日に出家を遂げた。法名を素貞という。10月宇治平等院から六波羅に移送され、長井遠江入道の許へ預けられた。翌元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、翌月中旬に京都を発って下総国に下り、千葉貞胤の家で拘禁の身となるが、10月末に病のため同地で薨去。享年32。後年、師賢を愛惜した天皇より太政大臣を追贈され、文貞公と諡された。
人物

二条派の廷臣歌人として、元亨以降の公宴(くえん)に詠進したが、元弘の乱に際してその感慨を詠じた作品は特に評価が高い。『続千載和歌集』以下の勅撰集に14首、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に49首が採られた他、『臨永和歌集』などの私撰集にも入集する。『二八要抄』の編者ともされ、日記に『師賢卿記』(元応3年2月分のみ現存)がある。
『太平記』

『太平記』では、後醍醐天皇は即位初期から鎌倉幕府を打倒して朝権を回復せんとの意志があり、日野資朝俊基が催した討幕の密議(無礼講)には師賢もその同志として参加した、と描かれている[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef