凡例花山院家定
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕弘安6年7月2日(1283年7月27日)
死没興国3年/康永元年4月28日(1342年6月2日)
別名金光院入道右大臣
官位従一位、右大臣
主君伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇
氏族花山院家
父母父:花山院家教
母:大宮院権中納言(法性寺雅平の娘)
妻中御門為方の娘、六条有房の娘
花山院長雅の娘
子良定、経定、花山院師賢室、長定、尊浄
花山院 家定(かさんのいん いえさだ)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・花山院家教の子。官位は従一位・右大臣。金光院入道右大臣と号す。花山院家9代当主。 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』、『花園天皇宸記』の内容に従って記述する。 『増鏡』第十三「秋のみ山」には文保2年(1318年)3月の後醍醐天皇即位の時の行列で一条内経と行列の序列を争ったことが見える。この時、一条内経は正二位行権大納言兼左大将であるが、権大納言としての席次は家定が上であった。一条内経は摂関家の人であるが父内実が摂関にならず内大臣で薨去したため、一条内経は家定達と同格扱い[3]だという主張を家定はしたようである。さらに延慶元年(1308年)に家定が正二位に昇叙された時も、先に一条内経が正二位に昇ったことを恨んで訴え、一条内経と同日付けで正二位に昇叙されたことにしてもらったという。家定がしばしば籠居した背景には一条内経との争いが関係しているようである。しかも一条内経は薨去時の花園天皇の評にある通り[4]、酒に溺れる面があり特段に能力があったわけではなかったようなので、家定にとっては自ずと格上扱いする気持ちになれなかったのであろう。 岡野友彦は、鎌倉時代に「権門」といえば院や摂関家であり、西園寺家などの清華家は「権門」とは言えないと主張している。しかし、後に久我通相が同じく摂関家の鷹司冬通と昇進争いをしているように、一条家や鷹司家を摂関家とは言うもののあくまでも「分家」と見る清華家出身者もいたことになる。花山院家と久我家は家の始まりが院政期まで遡るのに対し、一条家と鷹司家は鎌倉時代になってから起こした家であると見る向きがあったと考えられる。なお、花山院家では家定の父家教は大臣に昇進せず早世し、家定の子は良定と経定が公卿に昇ってから相次いで没し、ようやく三男の長定が家を継いでゆくのだが、家定にとっては家の継承に不安要素が存在したと言う事ができる。そうした不安要素から、花山院家にとってはことさらに家の序列を強く主張する必要性が生じていたと考える事ができる。
経歴
弘安8年(1285年)8月11日、叙爵。
弘安10年(1287年)12月9日、侍従に任ぜられる。
正応元年(1288年)1月5日、従五位上に昇叙。11月21日には正五位下に昇叙され、12月24日に禁色を許された。
正応2年(1289年)2月24日、従四位下に昇叙され、3月26日にはさらに従四位上に昇叙。
正応3年(1290年)1月13日、左中将に任ぜられる。10月29日には正四位下の昇叙。
正応5年(1292年)5月15日、右中将に移り[1]、同時に春宮権亮を兼ねる。
永仁4年(1296年)1月5日、従三位に叙される。右中将は元の如し。
永仁5年(1297年)8月26日、父家教が薨去したために喪に服す。
永仁6年(1298年)5月23日、正三位に叙される。
正安3年(1301年)、参議に任ぜられる。
乾元元年(1302年)、従二位に昇叙され、3月22日には権中納言に昇任。
嘉元3年(1305年)12月30日、権大納言に昇任。
延慶元年(1308年)9月17日、正二位に昇叙。
正和4年(1315年)7月21日、右近衛大将を兼ねる。
文保元年(1317年)冬から籠居して出仕しなくなり、文保2年(1318年)3月に出仕するも再び籠居した[2]。同年8月15日、任大臣の兼宣旨があり、8月24日には右大臣に任ぜられた。右大将は元の如し。12月10日に右大将を辞した。
元応元年(1319年)1月5日、従一位に昇叙。4月10日、右大臣を辞した。
興国3年/康永元年(1342年)4月28日、薨去。
一条内経との争い